今日の古代暦学者の多くは、我が国では持統朝より前から元嘉暦を公用していたと考えており、それが現在の通説のようになっている。

そのため④の「勅を奉りて、始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」という文も、従来の元嘉暦に加えて儀鳳暦を併せて用いることにしたという意味に読むのであるが、既述の通り、この文はそのように読める文とは思われない。

⑤のような証言もあるのであるから、元嘉暦も儀鳳暦も持統天皇の即位年(持統4年紀)を期して、観象授時の思想(天子は天を観察して、民に正確な時間を教えねばならないとの思想)の下、初めて採用された暦法であったと思われる。

我が国で早くから元嘉暦が実用に供されていたとする旧来説が掲げる論拠にはいくつかあるが、卑見によればその主たるものは2 つあり、1つは書紀が5世紀以降の編年に元嘉暦を用いていることであり、いま1つは2002年に石神遺跡から出土した具注暦木簡であろう。この木簡に記された暦日は、持統3年紀の3月と4月の元嘉暦の暦日に一致していることが判明している。

最初の根拠はしかし、根拠とはなり難い。

書紀の使用した暦法が、当時実用の暦法に依ったのではなく、安康紀より前では本来は定朔法である儀鳳暦を平朔法によって用い、安康紀以後は、元嘉暦(これは元から平朔法である)を用いて暦日を造作したものであることを、早くに小川清彦氏が証明している(斉藤国治編著『小川清彦著作集 古天文・暦日の研究』 〔皓星社 1997年〕246~306頁)。

書紀が安康紀より前に平朔で儀鳳暦を、それ以降に元嘉暦を用いているからといって、当時の朝廷が5世紀以降は元嘉暦を、それ以前は平朔で儀鳳暦を実用に供していた、などと言えるわけがない。

2番目の論拠である石神遺跡出土の具注暦木簡について。