尋一は、来る日も来る日も十二月の寒さが身に染みる野山を北に向かって進んでいた。
風に吹かれ、枯れた葉や木々がまるで魔王の囁きに聴こえる。夜もほとんど休まず、風を切り駆けて行く。咲いている綺麗な花も目に入らず、囁きだけが聴こえて来る。枯葉が揺れ、目の前に見える木々が灰色に見える。魔王が尋一を掴み、苦しめる。
ある時は、木の上の果実を食べ、また別の日は、自生している山菜を食べた。バッタやコオロギといった昆虫や幼虫を捕まえる時もあれば、むかごを見つけて、山芋を掘ったこともあった。洞窟で寝泊まりし、ぬかるみにハマったこともある。坂を踏み越え、崖を下って何日も杏を探し求めた。
気づいてみれば、尋一は甲斐を越え、信濃北部まで来ていた。
まるでベートーベンの悲愴第一楽章のような悲しさが、尋一の心を包み込んでいた。
─駄目だ。見つからない。見つからない。杏はどこに行った? あの星空を見た夜はどこに行った? あの前途洋々と思っていた日々は夢だったのか? 俺はこんなにも不運の持ち主なのか? 探せど探せど見つからない。星が降るように全てが消えていく。
杏よ杏よ、どこにいるんだ。俺の声が聞こえないか? 聞こえているなら応えてくれ。どうか、どうか無事でいて欲しい。俺が安心させてやる。怖い思いをしているのか? 元気でいるのか? あの峠を越えれば杏はいるのか? その次の峠の向こうにいるのか? 見つかってまた笑顔で会いたい。声を聞きたい。
ああ、意識が遠のいていく。もう動く気力がない。ここで俺は何もしないまま、この世を去るのか? 俺の人生は何だったんだ。あの期待に満ちた日々は何だったのか? もう駄目だ。力が出ない。杏よ、もう一度だけ姿を見せてくれ。
尋一は、悲愴な面持ちで、北信濃の川中島で意識を失った。
薄日が差す夕方、冷たい風に吹かれて粉雪が舞い降りて来た。倒れた尋一の目の前には、大きな川が横たわっていた。
越後の馗鍾(しょうき)
「其方(そなた)は大丈夫か? 意識はあるか?」
越後周辺の北信濃で見回りをしていた上杉家武将、斎藤朝信 (さいとうとものぶ)が倒れている尋一に声をかけた。
斎藤は、数人の騎馬武者を伴い、その先頭を進んでいた。
二本の金の角を持つ前立ての兜をかぶり、甲冑姿で用心しながら敵がいるのではないかと、斎藤は北信濃の領地を巡回していた。
近頃は、この辺りに甲斐の武田が領地を伸張し、武田の偵察兵もウロウロしている。
斎藤が尋一の額に手を触れると、凄い熱を持っていた。
「これはまずい。この小僧をすぐ近くの民家に移動させろ」
尋一に手を当てて、ことの重大さに気づいた斎藤は、部下に指示を出す。
既に日は暮れようとしていた。倒れた尋一の周りに、冬の寒気が地獄の門番のように居座っていた。
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