紅葉のころ
今年も紅葉の季節になりました。真っ赤に紅葉した葉も今や落ち葉となり最盛期を過ぎつつあります。
高校時代の同級生でメル友にF君がいます。彼はまれにみる真摯な俳諧三昧の生活をしています。どこに行っても吟行してかつ多作で、今や万に達する発句を連ねたのではないか。東京新聞あたりにも盛んに投句し多く採用されています。
紅葉の季節になり、彼の便りの中である日の句会での選句の紹介がありました。
天上の紺に彩なす冬紅葉(日吉)
私は思わず記忘庵の庭の紅葉を見上げていました。その後「東海道五十三次」の本の解説を読んでいたらこんな句に出合いました。
受けて待つ手をすれすれに散る紅葉(虚白)
この句の作者は江戸時代、土山宿の常明寺の住職を43年務めた人だといいます。土山宿は鈴鹿峠を越えて伊勢から近江へ入る最初の土地です。さらにこの人にこんな句もあると、次の句も紹介されています。
曇りなきこころの月を手向哉(虚白)何気なしにふと立ちどまる。ふと、はらりと散る紅葉の庭に「佇む」時間となりました。
一つの句のテーマから次々と句や写真や読書で連なる時間や空間も「また楽しからず」であります。面白きことこの上なしです。
記忘庵日誌 2018・11・28
ヨガについて――人間の本性に迫る(私の理解したこと)2019
今、日本ではヨガは美容体操としても人気があります(痩身術と思われているかな?!)。色とりどりのタイツを身に着けてリズムを取るフィットネスと間違われています。
高齢者の運動には場違いかと思われがちです。従って厳しい鍛錬に思われて、中高年には無理だと敬遠されています。しかしこれは誤解です。
基本は調息や心身の「空」への導きにあります(私は今78歳にして初めてチャレンジしようという気になりました)。ヨガの目的の一つは、心の平安と世の平和の希久にあります。
そのルーツをたどれば古代インドのヒンドゥ教やジャイナ教、そして仏教の源流になったヒマラヤの秘教にあります。
聖のサマディ「サナタン」が真のヨガと瞑想なのです(日本の仏教、特に密教はその流れにあります。禅も一つのヨガの形態と考えてよいものです)。
われわれは例のオウム真理教のグル(師)とかサティアン(真理)という言葉で初めてこのヒマラヤのヨガ由来の仏教語に接し驚きました。
日本の僧侶は読経しても仏教の経典の解釈はあまり上手くないといわれます。残念ですが、多くの日本人はオウム真理教事件で仏教の原典のことばに目覚めたのです。
ヨガでは、自然界浄化の作用を大切に考えます。その循環のシステムはインド哲学ではシヴァ(破壊)やヴィシュヌ(維持)、ブラフマ(創造)のエネルギーと言います。
人間も例外ではありません。夜眠り浄化され細胞は再生され、仕事や活動で燃焼され、そして死んでいく―。