優子は泣き叫ぶ赤ん坊を胸に抱いたまま、玄関に立ち竦んだ。奥の座敷で複数の人の気配がする。三和土(たたき)には見慣れた父の運動靴と、母が仕事で履く汚れた白いスリッポンがあるだけだ。こういうとき、警察の人間は特殊なビニール袋を靴に被せて家に上がることは、後で知った。

繰り返すんだな、恐ろしいことは幾度も津波のように押し寄せてくるんだな――優子は無意識に天井を見上げた。

十四年前、一家の住む家の天井裏には、今の聖と同じ、生後十一ヵ月の赤ん坊の死体があった。当時は集合住宅に暮らしていたから、天井裏といっても、狭いユニットバスの天井に一部取り外しのできる丸い部分があり、そこを押し開けると上階の床との間に二尺ほどの隙間がある、その空間のことだ。そこに口を固く縛った半透明のごみ袋が押し込んであった。

優子はそれを直接見たわけではない。兄の生劉(りゅうせい)も見てはいないだろう。しかし兄は妹に、まるで見たかのように遺体が発見されたときの様子を話して聞かせたのだった。

ふいに、父親の熱い掌が優子の両肩を掴んだ。上から強く押す力に膝が震えて、その場に頽(くずお)れそうになる。赤ん坊を胸に抱いているという自覚が、かろうじて身体を支えた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだ」

達生は自分の掌の圧力にはまるで気づかずに、抑えた声音で繰り返した。

「誰も死んじゃいない。だいじょうぶだから」

実際には、二人から数メートルしか離れていない座敷で、母親の清子(さやこ)が冷たくなっていたのだ。しかし優子には、父がなにを言わんとしているか察しがついた。家族だったから。

だいじょうぶ、今度は誰も殺されたりなどしていない――。

「おかあさん、死んじゃったの?」

思わず口に出た。父親が誰も死んではいないと口にしたとたん、娘はなにが起きたのかを悟ったのだった。達生は肯(うなず)くかわりに「だいじょうぶだ」と繰り返した。

検死には時間がかかった。清子の遺体が鴨居(かもい)から下がっていた現場には、事件性を示唆する痕跡はなかったが、死者が怨恨を受ける立場にいたため、警察は慎重を期したのだった。