まえがき
人間の心には「知情意」があります。
かみ砕いて言うと、心には知的な面、情的な面、意志といった側面があり、それぞれが相互作用しつつ働いているということです。
このような考え方を踏まえて改めて「認知症」という病名を眺めてみましょう。あまりにも「知的」な側面に偏ったネーミングだと思われませんか?
認知症は確かに脳の病気なので、「知的」な要素の障害が目立ちます。しかし長年認知症の診療に関わっていると、心に「知情意」が備わっているからなのでしょう、「情的」な側面の影響がとても大きい病気であることを知るようになりました。
この本では今まで医療や介護の世界で行われてきた「知的」な側面に対するアプローチに加えて、新たに私が診療を通して知るようになった「情的」な面からの新しいアプローチが存在することをご紹介できればと思います。
これほど認知症という病気が一般的に認知されるようになった現在では少し奇妙に聞こえるかもしれませんが、ほんの20年ほど前まで多くの医療関係者の間で、認知症は疾患としては認識されておらず、どちらかというと老化現象の一種と見られていました。
その頃は「認知症」という言葉すら存在していません。医学用語として「痴呆」が使用されていた時期です。当時「痴呆」症状を主に担当していた精神科医の間ですら、認知症を研究、診療しようとする医師は変わり者と言われていたものでした。
精神科医ですらそうなのですから、20数年前に診療所を開業した当時、内科医である私には認知症の診療に携わるなんてことはまったく想像できませんでした。
しかし認知症を診療する医師が絶対的に不足する中で、高齢者医療に携わる誰もが否応なく認知症患者に接するしかありませんでした。結局内科医である私もそのような環境で認知症診療に深く関わるようになっていったのです。
そして現在、認知症は疾患として認識され治療の対象になり、神経内科医、精神科医、脳神経外科医などが専門医として診療を行うようになっています。そうするといつのまにか今度は、認知症診療をする医師の世界の中で、一般内科医である私はどちらかというと門外漢のような感じになってしまいました。
そのような私ですが、長年の診療経験を踏まえて、認知症に関する本を書いてみようと思い立ちました。そこでまず私がどのように認知症診療に関わるようになったかをお話ししたいと思います。