普及の工夫と苦悩 太田雄貴
2013年9月7日、現地時間17時。当時のジャック・ロゲIOC会長が、2020年の五輪、パラリンピックの開催地を声高に読み上げ、掲げる
「TOKYO!」
歓喜の瞬間。両手を握りしめ、ガッツポーズで感情を爆発させる。人目をはばからず涙する太田の姿を覚えている人も少なくないだろう。
7年後、東京に五輪、パラリンピックがやってくる。一気にお祭りムードで五輪開催決定に日本中が沸き上がる。あれほど夢見た瞬間が現実になったのだから、嬉しくないはずはない。
だが帰国後、テレビも新聞も招致決定のニュースを飽きるほどに繰り返し、招致団がヒーロー、ヒロインにまつり上げられる中、太田は一切のメディア出演を断った。
「試合と同じで、選手はしょせん演者なんです。確かに光へ照らされる場所にはいるけれど、その舞台をつくった人がいて、僕らはそこで戦うだけ。招致もまさに同じで、確かにスピーチは緊張しました。でも僕のスピーチですべてが決まったかと言えば決してそうじゃないし、むしろそんなことは絶対に言えない。
僕は招致活動に携わったけれど、自分が招致したわけではない。どれだけの人たちが動いていて、その結果がこれだ、と見せつけられてきましたから、自分が表に出るなんて、考えられませんでした」
そして太田を照らした眩い光は、同じだけ色濃い影も見せた。
「正直に言うと、五輪が東京に決まったあの瞬間、自分がメダルを獲った時以上に感動したし興奮しました。だから、自分はこれから生きていく先、これほどの感動、感情に出会えることがあるのか。あれほどの高揚感を味わえることがあるのか。言うならば、不感症ですよね。何を見ても感動しないどころか、何の感情もない。
まだ現役選手ではありましたが、フェンシングに気持ちが向くこともなく、何もやりたいことが見つからない。光が強すぎた分、反動も大きい。招致して、五輪が決まってから3年ぐらい、ずっとしんどかったです」
それでも、時は流れる。
招致活動を終えた同じ2013年の11月、再びフェンシング選手として本格的に始動。あえてロンドン以前と比較するならば、がむしゃらに一本道を突き進んできたそれまでとは異なり、やや俯瞰的に自身の進むべき道を、どこへ行くのが適しているのか、幅広い視野で見る。