さらに、招致活動でより広がった人脈を活かすだけでなく、招致活動をして今なお現役選手として活動する現状も最大限に活用し、多くの人に会う機会も飛躍的に増えた。
決してセカンドキャリアを見据えた地盤づくりというわけではなく、今自身の器を広げ、さまざまなスキルを伸ばすためのきっかけづくりで、貴重な時間と捉え、積極的に動き回る。
なおかつその過程の中で現役選手としても国際フェンシング連盟のアスリート委員に選出されて理事になり、2015年の世界選手権で初優勝。2016年のリオデジャネイロ五輪は団体の出場権を逃したものの、個人ではアテネから4大会連続となる出場を果たした。
4年後に控えた東京五輪招致の立役者が、リオデジャネイロ五輪を戦う。当然ながらこれまで以上に大きな注目を集める中、迎えた初戦は地元ブラジル代表のギレルミ・トルド。
世界ランクでは太田がはるかに上回り、数字だけで見れば太田が絶対的優位であるのは間違いない。だが、多くのフェンシング選手、関係者から何度聞いたかわからない。ランキングは水物だ、と。しかも五輪においてはなおさらで、言えるのは、その日に勝った選手が強い、ということ。
逆の立場で太田がメダリストになったのが、まさに北京五輪だった。そして8年後のリオデジャネイロ。地元の大声援に後押しされたトルドは、恐れず前に出る。これが初戦となった太田は緊張が拭えぬままポイントを重ねられ、13 対15。
太田にとって初戦であった2回戦で敗退し、試合後、ピストにそっと触れ、現役引退を表明した。リオ五輪の閉幕と同時に、次の関心は東京五輪へ。
多くの競技、選手が活躍を期待されメディアの注目を浴びる中、自らもその場に立ちたいと思わなかったのだろうか。おそらく多くの人はそう思うはずだが、当の本人は間髪入れず、笑いながら否定する。