秩序

秩序はあるものを担保している。

それは循環。

秩序が維持されることによって、循環が実現し、万人に可能な限り平等にチャンスが与えられることとなる。そして、秩序を実効性のあるものとするためには、住み分け、つまり「皆のもの」ではなく「ぼくのもの」が共通認識とならなければならない。

そう、認識革命である。そしてその認識革命を担保するものが信仰なのである。なぜならば、認識革命は意思とは無関係に生ずるものであり、そこでは「偶然」とか「翻弄される」とかが実に大きな意味を持ってくるからだ。人は脈絡なく生きることはできない。それは都市を見ればわかる。しかし神はしばしば理解不可能な結論を私たちに強いる。

神様、なぜ私なの?

今この瞬間もそのように戦慄いている人がいる。

そこにあるのは明らかに何かの犠牲。

また、ここに喪失が来る。

神は私たちにしばしば犠牲を強いるのだ。

なぜ?

だがそれを知るためには、私たちは信仰に目覚めなければならない。

足し算ではなく引き算。

昇っていく時に見えるものではなく、下っていく時に赦せるものに人生の価値を見出す。

神とは何か?

それはすべての不都合の代名詞。

私たちの身の上に降りかかるすべての不都合は「神」の一言で代用が効く。

神は私たちを造っておきながら、私たちが当然と思う領域に僅かでも踏み込もうとすると、真実を覆い隠してしまう。そう、だから預言者は入京を許されないのである。預言者は乾燥した大地を往かなければならない。彼は神の言葉を知るが故に決して絶対者にはなれないのである。

しかし光と喧騒が、国境で足止めを食らう預言者の存在そのものを消し去ってしまう。彼は黙殺され、やがて息絶える。まるで痩せ衰えた詩人のように彼は象徴的に死を迎える。業火が街を襲う時、誰かが彼を思い出すであろう。そして彼の後継者を語る偽りの信徒が、実は現世的な利益のために奔走する。

果たして誰がその嘘を見破れるというのか?

それは手の汚れた者である。

そして彼は手を汚す。

ゴミを片付ける。トイレを掃除する。躊躇せずそれを拾う。他人任せにしない。如何なる時も感情的にならない。中途半端な結果もよしとする。小さな豹変を繰り返す。ここぞという時に一つ少ない方を選択する……

彼は負の連続の中にこそ潜む奇妙な偶然の意味を探ろうとしている。そしてそこにある、彼にしか理解できない法則と現実との間に一本の橋を架けようとしている。

これは彼の口癖。

【前回の記事を読む】自由は、個の可能性を追求する権利を担保するためにこそあると定義するならば…