一九七〇年 夏~秋

5 家出​

近藤さんと映画館を出て、またアーケードを歩きました。近藤さんは幾分肩を怒らせています。

「昼飯まだじゃろ。なんぞ食うで」

寝坊のせいで朝から何も食べていませんでした。

二人が入ったのは裏通りの居酒屋『せん吉』でした。色の褪(あ)せた暖簾(のれん)をくぐり、入口に近いテーブル席に座りました。他に客のいない店内は、戸外より熱気を溜めています。ビニールのテーブルクロスがべたつき、首を振る扇風機は最強の風を送っていました。

丸々と太った店の中年女に、近藤さんはカレーとビールを注文しました。何にするかと問われ、私もカレーを頼みます。カツカレーと言いたかったのですが、これも奢(おご)りかと思って遠慮しました。

山盛りの御飯にルーがちょびっとのカレーが出てきました。しかもルーはもったりした甘酸っぱい味で、得体の知れない脂身(あぶらみ)が入っています。それでも私は空腹だったので、ウスターソースを回しかけて、一匙(ひとさじ)も残さずに食べてしまいました。生ぬるいコップの水で、喉につかえそうなのを一気に流し込みました。

近藤さんは二本目のビールを飲みながら、厨房(ちゅうぼう)から出て来た丸坊主の店主と話しています。

「大分おっきょうなりましたわ。そろそろいけるんとちゃいまっか」
店主が店の隅に置いてあるガラスの水槽を指差しました。
水槽の中には、大小の亀が三匹入っています。

「すっぽんじゃ。ワイが愛喰(あくい)川で生け捕ってきたんよ。まだこまかったけん、センさんに頼んで大きいしてもらいよるん」
近藤さんが手酌(てじゃく)しながら言いました。

二十センチほど張られた濁り水から、亀は先の尖った長い指のような首を突き出しています。こちらに気がつくと、敏捷(びんしょう)な動きで潜ろうとしたりガラスを掻いたりしました。

「大きいにしてどなんするん」
「ほら食うんに決まっとんでえか」
「坊ちゃん、すっぽんの血いって飲んだことありまっか」

店主は青く剃り上げた頭の鉢巻きを締め直します。

「血いを飲むん」
「生肝(きも)じゃ。ピクピク動いとるんをパクッとな」

「ほんですっぽん鍋ですわ。ほらうまいでっせ。〆はゼラチンの溶けた出汁(だし)で雑炊にしたったら、これがまたなんとも言えんのんです」

「すっぽんはな、肉も皮も甲羅も内臓も、どこっちゃ捨てるとこがないんよ。滋養にも最高なんじゃ。うちの湯治客(とうじきゃく)には、ほれ目当てで来る人もようけおるんじゃ。夏バテ解消に最高ゆうてな」

「ごっつう精力がつきまっせ。温泉入ってすっぽん食うて、晩にはもうギンギンですわ。嫁はんヒイヒイ泣かされてまっせ。子孫繁栄まっちゃいなしですわ」

店主が金冠の填(はま)った前歯を見せて、卑猥(ひわい)な笑い声をたてます。

「まんのはんで使うんやったら、持って行ってくれてもええよ」
「料理長に聞いとくわ」
「セイちゃんが料(りょう)らしてもろたらええがな」
「あかん。ワイはまだ魚いらわしてくれんのよ」
「ほんまかいな。なかなか厳しいなあ」

二人は料理人にしかわからない話に花を咲かせます。

「ちょうどええ。坊ちゃん、おもっしょいことさしたぎょか」
皿を下げにきた中年女が私に言いました。

「亀にエサやってみいへんで」
女が手にしているのは、赤い金魚の入ったどんぶり鉢でした。

「ほれ。やってみたらええわ」

女が目高(めだか)より少し大きいくらいの金魚を一匹、スプーンで掬って水槽に落としました。亀たちはしばらく反応しませんでしたが、やがて最も大きな一匹が首を振って金魚の腹に食らいつきます。上を向いて咀嚼してから丸呑みにしました。

「歯がごついけん、指を咬み千切られんように気いつけてや」
女がスプーンを手渡してきます。

私はどんぶり鉢で泳いでいる色鮮やかな金魚を眺めました。

「生きた金魚でないとあかんのえ」

生きたまま食われるってどんな気分だろう、と思いつつ女に聞きました。
「ほら生き餌(え)の方がええわ。ない時は煮干しをやるんじゃけど」

「金魚がかわいそうじゃろ。いつも煮干しにしときいや」
義憤(ぎふん)のようなものを感じていました。

「おんなじことじゃろ。煮干しやって前は生きとったんじゃし。ほれにこいつは川におるときは、蛙でも虫でも何でも生きたままバリバリ食うとったんじゃけん」

急に機嫌を損(そこ)ねた女は、ぶすっとしてどんぶり鉢を水槽に空(あ)けてしまいます。獰猛(どうもう)な亀たちは金魚を襲い、瞬(またた)く間に一匹残らず平らげてしまいました。

水中に尾鰭(おびれ)の残骸(ざんがい)が漂っているのを見ると、カレーが胃にもたれるのを感じました。そして、何があろうと自分は一生亀を食わないと心に誓いました。