一九七〇年 夏~秋
5 家出
またアーケードを歩き、途中で見つけた玩具屋に、二人して立ち寄りました。ひやかすだけかと思っていたら、近藤さんがプラモデルを一つ買ってあげると言います。
狂喜した私は散々迷ったあげく、本当は電動歩行の『大怪獣シリーズ・バラゴン』が欲しかったのですが、あまりに図々(ずうずう)しい気がして、別体のマブチモーター付き『人間魚雷・回天』を買って貰いました。
「ほな、お母はんによろしゅうゆうといてな」
近藤さんは私を旅館へ送り、そう言い残して帰って行きました。
私は嬉々としてプラモデルを組み立てます。安物のわりに、操縦席に座る日の丸の鉢巻きを締めた特攻兵の人形や、計器板と操縦桿(かん)などの細かいパーツが付属していました。
手間暇をかけて人間魚雷・回天は仕上がり、すると試しに動かしてみたくなります。矢も楯(たて)もたまらず私は部屋を飛び出しました。
旅館から坂を下っていくと、新しい民家が密集しており、碁盤目(ごばんめ)に走る排水路が水を湛(たた)えています。その水路脇に蹲(うずくま)って、プラモを浮かべようとしたとき、何やら赤い物が目につきました。
金魚が泳いでいました。浮き沈みしながら小さな尻尾を振っています。急にさっきのカレーが喉元に迫り上がってきて、私は堪(こ)らえ切れずに戻してしまいました。
その弾みに手から取り落とした人間魚雷が、猛スピードで特攻を敢行(かんこう)していきます。水路の蓋の下へ潜って取れなくなってしまいました。単三電池一本を動力源とするマブチのモーターは予想外に強力なのでした。
金魚は私の吐いた未消化のカレーの中を悠然(ゆうぜん)と泳いでいます。それを食っているのかもしれませんでした。私は口の中の粘つきを、唾液ごと何度も吐き捨てました。
コンクリートの排水口から、湯気の立つ水が流れ出しました。そこらの家々が夕餉(ゆうげ)の支度をはじめたようです。濁った水が素麺(そうめん)の切れ端や人参の切り屑(くず)などを運んできました。
金魚は人間の生活の残滓(ざんし)のような物を糧(かて)に生きているのでした。ここには幸い、天敵の亀はいないようです。
プラモをなくして部屋へ帰ると、母が仕事へ出るための身繕いをしていました。母はここへ来て僅か数日の間に、何だか雰囲気が華やいだ気がします。夜はお酒のにおいをさせていることもありました。
時折部屋にやってくる逸美叔母さんと、お客の誰それさんがどうのといった話を楽しそうにしています。母は念願通り、百姓以外の者になろうとしているのでした。
「近藤さんと映画行ったんじゃろ。楽しかったで」
鏡の中の化粧する母が聞いてきました。
「まあまあじゃった」
色々なことのあった一日でした。
「お昼は何食べたん」
「カレー」
「ほれだけ」
「うん。近藤さんはビールも飲んどった」
「何か買うてもろたん」
「プラモ」
「どんなやつ」
私が箱を見せると、母は値札を確かめます。
「ケチじゃな。五千円も渡しとったのに」
その言葉を聞いて、やっと私はすべてが母の差し金だったのだと悟りました。お誕生会へ行けない息子への配慮だったのです。
「ママ、明日マガジン買うけん、お金かあよ」
ここでは欲しい物を何でも買って貰えました。それが当然のことのように思えていました。
しかも、母と子の関係はあらぬ方向へ発展しつつあります。夜更けに仕事を終えて帰って来た母は、いつも少し酔っているのか、大儀(たいぎ)そうに帯を解いて着物を足元に落とすと、素っ裸で私の布団に潜り込んで来ました。
「あー、疲れたー」と言いながら、半分夢うつつの私を胸の中に抱き取ります。
汗が発酵したような母の体臭を鼻腔一杯に吸い込みながら、私は「ママ、ママ」と赤ん坊の真似をしながら、やわらかなおっぱいに顔を埋めました。鼻先で谷間をぐりぐりしたり、調子に乗って乳首をちゅうちゅうすると、早くも眠りかけている母が、「あふあふ、あふん」とおかしな喘(あえ)ぎ声を漏らすので、それがまた嬉しくなってしつこくやるのでした。
まだその頃の私には陰毛も生えておらず、セックスがどのようなものなのか理解していませんでしたが、勃起したこともない陰茎が妙にムズムズするのを感じていました。それは、体育の授業で『登り棒』をやるときに、股間に生じる気持ちの良さと同質のものでした。
はともあれ、ここでの生活が私にとって天国であったことは言うまでもありません。
しかし、それも長くは続きませんでした。
「お金がないんよ」
母が寂しげに蝦蟇口を開けて見せました。中には小銭だけで、札は一枚も残っていませんでした。
「給料日まで待ってな」
「わあった」
私はプラモをなくしたことを尚更(なおさら)後悔しました。