第3章 私のことと助産師になるまで

私の小学生の頃

私は兄二人と弟二人の真ん中の女の子として育ちましたが、いつも兄弟喧嘩をしているのが二つ年上の兄でした。その兄は結構大人しく、私と喧嘩をするとすぐに泣くので、いつも女の私が兄をいじめていたように見えたかもしれません。

しかし中学生になり、彼の腕力が強くなって、喧嘩しても勝てないのがわかりました。そこで私は喧嘩の作戦を変え、噛んだり唾を吐いたりして逃げていましたが、今思うとどうしてそんなに喧嘩をしたのかがわかりません。たぶん子供の頃から、女だからといって男の二歳上の兄に負けたくないという闘争心があったのでしょう。

実は私は、日本の小学校の一年生を二回やっています。だいたい日本の家庭では入学式を経て新入生として学校に行くのですが、私はそうではありませんでした。当時、兄が朝鮮民族学校に通いだしたので、負けず嫌いの私は兄と一緒に学校に行きたかったのでしょう。

まだ就業年齢にならない六歳頃に兄と同じく朝鮮学校に途中から行くことになったのです。就学時期でない上に中途に入学したので、何をやっているのかまったく理解できませんでした。その後たった数か月で閉校になったので、数か月しか在籍していませんでした。

ただその時の学校はとても厳しいものでした。教室で先生が棒を持って机を叩きながら教える勉強に、六歳の私は恐怖さえ覚えました。そこが閉校になったので、今度は日本の小学校に途中入学をしたのですが、なにしろ基礎がわからないので、進んでいく科目についていけず苦労しました。

結局、もう一度一年生から入学し直すことになったのです。基礎から教えてくれたので授業が本当によく理解できて、勉強も楽しくなりました。

それにしても両親は、私が入学する時期ではない六歳頃に、兄と一緒に学校に行きたいと言ったとはいえ、なぜそこに行かせたのか、非常に不思議に思います。普通であれば、就学時期が来るのを待つものだと思いますが……。両親は私のやりたいように任せたのでしょうか? 自由にさせたのでしょうか? わかりません。私の自己主張が強かったので仕方なかったのかしら?と思ったりします。

私が日本の学校で二年生になった時、担任の先生はご高齢の方でした。とっても丁寧に授業をしてくれる方でした。民族学校のように棒など持っていません。それだけでも、私はほっとしたのです。