第一章 イマジン
「それとも、娘さんを手放したくないのかな!? 俺は息子二人で、娘をもったことがないからわかんないけれど……。父親は、娘を〝猫かわいがりする〟って言うじゃない。名前、忘れちゃったんだけど教えてくれないか?」と純一郎は真一の顔を覗き込んだ。
真一は憮然とした表情で、「娘の名前は、華道の〝華〟、音楽の〝音〟と書いて〝カノン〟と呼ぶ。女房がピアノやっているだろう。俺は音楽のこと、さっぱりわかんないんだけど、音楽用語らしいよ。どうも結婚したときから、女の子を授かったら華音と決めていたらしい。さっきのこと、頭の片隅に入れとくよ」とぶっきらぼうに言い放った。
「片隅じゃ困るんだ。一度、それとなく聞いて貰えんかな」と純一郎はいつになく本気だった。
真一は立ち上がり、「高瀬くん、今日はありがとう。自分の部屋に戻って女房に連絡するから、これで失礼するよ。何かあったら、すぐに相談するから」と告げた。
「そうそう、俺も午前中の講義があるから、また会おう」と言って二人は別れた。自分の部屋に戻った真一は瑠璃に電話し、純一郎との話の概略を伝えた。すると瑠璃は、「まあ、明日ですか。随分と忙しいこと」と意外な様子だった。
「とにかく、高瀬くんに相談して、弟の純二郎さんが高岡セントラル病院の副院長で消化器内科部長をしているので、家から近いし推薦してくれたんだ。明日、検査入院できることになり予約したので、お義母さんを説得してほしい。膵臓癌は一刻を争うというから早いに越したことはない」と真一は早口でしゃべった。
「あなたの意向、良くわかったわ。お母さんを説得するから」と了解した。真一は腕時計を見て、「午前中の講義があるから……」と告げ電話を切った。
瑠璃は早速二階の文子の部屋の扉を叩き、「お母さん、昨晩の件でお話ししたいことがあるので入っていい?」とドアノブに手をかけた。「どうぞ、いいわよ」と返事があった。
文子は、文机(ふづくえ)の前に正座し、漢文で書かれた『仏説観無量寿経』を写経していた。「たった今、真一さんからお母さんの検査入院のことで、明日、高岡セントラル病院を予約できたから、都合を聞いてほしいとの連絡がありました」