第一部 佐伯俊夫
第一章 発端
電話口で優等生的に言ったあと、ほっとしたのでしょう、
「ああ、ほんとによかった!」
と無邪気な少女のように呟いて笑ったその声を、私は今でも忘れられません。採用が決まるかどうか、彼女なりに不安な一夜を過ごしたのだと思うと、所長のOKが出たあとその日のうちに連絡すればよかったかと悔やまれ、彼女に心配をかけてしまったことを申し訳なく思いました。
私はすでに美夜子に恋をしていたのだと思います。
水曜の朝、小出美夜子は予測どおり田沼さん以上に早く出社してきました。
「こんなに早く来なくっていいのよ、始業は九時なんだから。皆だいたい八時半から四十五分くらいに来るの。あんまり早く来られるとわたしももっと早く来なくちゃならなくなるわ」
田沼さんがまるで面倒見の良い姉のように小出美夜子に言っているのが聞こえました。
「すみません。早すぎますね、私」
と田沼さんに頭を下げながら謝っている美夜子の姿を、私は見ないようにしてこっそり見ていました。
「三十七歳には見えないな」
絶世の美女というのは、ともすれば実年齢よりも上に見られがちです。じきに四十代だというのに、美夜子にはどこか幼い危うげなところがあり、年齢を知らなければ二十代半ばくらいにしか見えません。事務所の男性陣である経理の米田さんとガンちゃんこと牧田巌君も、小出美夜子の登場にはひそかに色めき立っているようでした。
「会社に来る楽しみができましたよ」
田沼さんのいるところで堂々と言ってのけるガンちゃんに、田沼さんも睨みつけながら笑うしかありません。
「まさかわたしに早くいなくなってほしいんじゃないでしょうね」
そう言いながらも田沼さんが小出美夜子に敵意めいたものを抱く様子はありませんでした。おっとりとした雰囲気とは裏腹に、美夜子は仕事もどんどん覚え、田沼さん付きの研修期間も当初予定していたより大幅に短縮されることになりました。
「さすがは元大企業の秘書をされていただけのことはありますね」
私が美夜子の仕事ぶりに感心してそう言うと、「田沼さんのご指導の賜物です。本当に親身に教えてくださって。米田さんも牧田さんもとても親切ですし、皆さんのお蔭で気持ちよく……」
と言うと、美夜子はふっと涙ぐむように顔を伏せて指先で目頭を押さえました。