新しい家族と共に
長男としての責任を果たす
有江くんの事故のことがあり、それなりに年も重ねたこともあったのかもしれない。ふと思ったのは、私をここまで大きくしてくれた母の存在であった。
正直なことを言えば、十代で家を離れてからは、家族とは違う人生を歩んでいきたいと思っていた。父のようにはなりたくない。きちんとした職業に就いて、暮らしを安定させ、人に堂々と胸を張れる生き方をしたいと思っていた。
だからこそ、時には遊びに夢中になって羽目を外しても、人生のレールからは外れずに生きてきた。
ただそのレールの道筋のスタートラインを引いてくれたのは、産みの母ではないとしても我が子として懸命に育ててくれた母だ。故郷の熊本に母を置いたままでは、私はいつまでも何かをやり残したままなのではないか、そうした思いが強くなっていったのだ。
連絡をしてみると、母には母の思いがあった。
下の妹が中学生になっていたのだが、母としては高校へ進学させたいという思いが強かった。私と上の妹を高校へ進学させることができなかったことが、今も心のしこりになっていて、下の妹だけでも高校へ行かせてやりたいと思っていたようだった。
しかし、その頃の実家の経済状態では、母の細腕一本と上の妹のわずかな収入で、下の妹を高校に行かせるのは難しいというのが現実だったのだろう。ずいぶん悩んでいたようである。だからと言って私に仕送りを増やしてほしいとは言い出さないのも母ならではの優しさである。
電話で話していても、母のそうした心の内側がなんとなくわかるような気がした。母の思いに応えるためにはどうしたらいいか。
熟考した末、私は母と妹をこちらに呼び寄せることを思いついた。人並み以上の給料をきちんともらっている。仕事も真面目にやっている。私くらいの年齢で妻や子どもを養っている仲間も多くいる。私の力で妹を高校まで出してあげることが、何よりもの親孝行になるだろう。
私の誘いに、最初は母も、親族の多い故郷を離れることをためらっていたが、下の妹を高校に入れるため、決断してくれた。遠く離れた九州から、頼れるのは私しかいない関東へ来るのは、どんなにか勇気がいることだろう。
それでも私を信じて千葉までやって来てくれることをうれしく思った。やっと長男としての責任が果たせるときが来たのである。
私は寮を出て、西千葉に家族で住む小さな一戸建ての家を借りて、母と下の妹を迎えた。上の妹は慣れ親しんだ熊本を離れることを嫌がり、また私への遠慮もあったようで、一緒には来なかった(後に家族を頼って上京した)。
十年以上ぶりに家族が顔を合わせ、一緒に暮らすことはやはり嬉しい。ずっと寮の食事や外食で過ごしてきた私の口には母の懐かしい料理がなんとも新鮮で、幼い頃から食べ慣れた味が、体に心に沁み渡るようだった。