第四章 振り子の行方
門扉の軋む音を聞きつけて、いつもなら郁子が春彦の胸に飛び込んで来る。朝は照れて逃げるのに今こうして正面から抱きしめる春彦は、その耳元でただいまと言うのだった。この期に及んで照れくさそうにお帰りなさいを言う郁子は、何て可愛いのだろうか。
荷物を郁子に預けて促されるリビングの奥からは、夕食の良い匂いが漂って来る。共働きの両親の元で育った春彦の欲しかった何もかもが、その食卓には並んでいる。きっと春彦こそが、郁子との生活に癒されてきたのだろう。
流産のショックが抜けないだけだ。元通りの郁子に戻ってさえくれれば、また二人であの穏やかな生活を続けられる。春彦が祈るような気持ちで辿り着いた我が家は、暗くくすんで見えた。
辺りが既に外灯を灯していたからだろう。手暗がりで噛合わない鍵と鍵穴とを無理やりこじ開け、転がり込むように踏み入った玄関内も闇に包まれていた。春彦の脳は期待と落胆とを繰り返しながら、次第に不吉な想像に押しつぶされそうになっていた。
足からむしり取るようにして脱いだ皮靴が、勢い余って玄関に当たっても気が付かなかった。そしてリビングの扉を開け放った先に見たものに、固唾を飲んだ。
郁子は闇の中にいた。ソファーに座りこちらに背を向けたまま、庭を見ているようだった。それは生身の人間がいる空間とも思えず、春彦はその雰囲気に圧倒されながらも、扉脇のスイッチに手をやった。
急に灯の灯されたリビングは、それでもどことなく薄暗く感じられた。すぐ後ろから声をかけても、郁子は気が付かなかった。どうやら小さな声で鼻歌を歌っているようだ。
「どうしたんだ!」
春彦が目の前に回って声を掛けても、郁子は焦点の合わない目で不思議そうに見るばかりだった。その尋常ではない様子に、春彦の声は大きくなった。
「郁子!」
春彦が郁子のことを呼び捨てにしたのは、これが初めてかもしれない。その呼び声に反応したのか、郁子は満面の笑みを浮かべて言った。
「お父さん、お帰りなさい!」
それがどれほど聞き捨てならない言葉だったとしても、今、目の当たりにしている奇怪な何かに及ぶほどのものではなかった。春彦の目の前では郁子の主導権を何かが奪い合っているような、そんな光景が繰り広げられていた。