第四章 振り子の行方
「あなたはアメリカにいたから、僕は何も言いませんでした。郁子にとって僕はもう存在しないも同じなんです。こうなったのもあなたが郁子に妊娠を急かしたからです。自分の発言が軽率だったとは思いませんか?」
亜希子は、春彦のこの言葉を鼻で笑い飛ばした。
「たったの二年ぽっちで、もう泣きが入っているってわけ? 郁子はまだ生きているじゃない! 存在しているじゃない! その生身の郁子を前にして、よくそんな情けないことが言えるわね」
そう言いながら亜希子は全身を両手で抱きしめ、ワナワナと震える口元を隠そうと一文字に結んだ。睨み付けるように見てくる亜希子の声は、一段と大きくなっていた。
「あの楢崎が唯一認めた人だったから、だから郁子と引き合わせたのに! とんだお眼鏡違いだったってことね」
お互いに怒りの応報になるかと思われる状況だった。そこにいきなり持ち込まれた第三者の名前を聞いて、春彦は今の今まで口にしようと用意していた言葉の数々を全て飲み込んでしまった。
『楢崎先輩のことだろうか?』楢崎悟は春彦の高校時代の部活の先輩であり、亜希子の同級生だった。
春彦が高校に入学しサッカー部に入部してまだ間もない頃、二年に上がりたての悟が満場一致で空席になっていたキャプテンの座に就いたのだった。その落ち着き払った様子を、春彦は今でもまだ鮮烈に覚えていた。
その悟が亜希子に子どもっぽい悪戯をして見せては、亜希子に叱られていた。そんな二人が噂になることもあったが、亜希子を思うばかりの春彦はそれが馴染み深い同級生だからだと一蹴してきた。そんな悟は大学卒業から数年後に、事故で亡くなった。
密葬のため葬儀には参列できなかったが、悟を偲ぶチームの結束は相変わらず固くその人柄が窺えた。亜希子は珍しく涙を流していた。春彦が亜希子の泣いている姿を見るのは、これが初めてのことだった。
郁子と亜希子は同じ型から作られた人形のようでいて、性格は似ても似つかないものだった。郁子は春彦に対して、その喜怒哀楽を決して隠しはしなかった。亜希子はこの感情を押し殺すような泣きざまが、却って痛々しく思えるものだった。
亜希子には先ほどの春彦の発言が、刺さっていた。アメリカに行っている間、郁子の状況に気付けなかったのは事実だった。けれども、それは亜希子が自由でいられる、なけなしの二年間だった。
それを知ったら、春彦も少しは考えを改めるだろうか。それだけではない。悟とのことを知ったら、亜希子の言葉に少しは耳を傾けてくれるだろうか。
亜希子は今まで自分を憐れんだことも、みじめに思ったこともなかった。そんな感情に追いつかれていたら、きっと生きてはこられなかったことだろう。何故、今頃それを味わう羽目になったのだろうか。