豹変

昨日までの自分の選択の誤りを潔く認め、一瞬にしてそれまでとは真逆の方へと走っていく。

私は負けた。彼は裏切り者になる。だが価値ある言葉を残すのは、負という宿命を背負った者だけだ。殉教とは意味深な言葉だ。もう一方の側から見れば罪人でしかない信徒が、しかし世の承認を経て聖人となる。だが布教時において、彼は間違いなくこうであったのだ。

異邦人

なるほど、この書のタイトルは『ぼくの地球』であるが、これを異邦人と変えても、おそらく何ら問題はあるまい。預言者は入京を許されてはいけない。少なくとも短期的には。正しい者こそ、さすらう者。彼にはアブラハムと同様、乾燥した大地こそが相応しい。彼はしばしば水を請い、しかし断られる。ダヴィデのように神に祈りを捧げても、返ってくるのは沈黙だけだ。

なぜ克服すべき過去を持たない者が、正義のために命を捧げようとするのか?

それを行おうとするのは皆、思い出したくない過去に苛まれた経験のある者たちだけだ。克服すべき過去、それは喪失に似ている。彼は青春を喪失している。

若い頃の自分が作った負債。だがそれが十代であっても、負債は利子を含め完済されなければならない。ここに厳しい現実が重なる。だから契約が必要になるのだ。信仰は神との契約であり、それは約束の最終形。だがおそらくそのことによってのみ、負債の完済は可能となる。

私も彼もそのことをよく知っている。だから契約をより確かなものとするために実践を重視しているのだ。神はすべてを救う。だが負債の完済は、個々人の目覚めとそれに伴う実践にかかっている。ここに登場すべきワードは、救済ではなく幸福。そして、信仰によってこれが担保される。

万人の幸福

救済は神によって果たされるが、幸福は信仰によって果たされる。

なぜならば、信仰を知る者は、負けることの意味をよく知っているからだ。そこでは住み分けが実現し、そこにある対象は「皆のもの」ではなく「ぼくのもの」となる。したがって権利が発生し、「許可なく立ち入ることを禁ズ」となる。ここに「排他的」のキーワードが来ることとなる。

「これはぼくのものだ」だから彼は責任をもってそれを管理しなければならない。何事につけ、決して人任せにはできない。彼がそれを管理するのだ。なぜならば、彼がそれを所有しているからだ。

【前回の記事を読む】希望はきっとある。「善の」行為の繰り返しである新しいコミュニケーションのなかに。