しかしほぼすべてのキリスト教宗派が、このキリストの教え〈教理〉の入信初歩の段階に留まっていて、《その中で「聖化という概念」を模索》しています。それは乗り越えなければならない「血の契約」という霊的ギャップがあるのに、それが分かっていないからです。

そして聖霊を受け取れないままでいるのに、受け取ったように語る偽善に陥ってしまうでしょう。そして主イエスの「奇跡の行い」を「現代には起こらない」とする、その無知さと傲慢さが、最後の審判で〔聖霊を汚す赦されない罪〕とされるのです。

「主イエスの空中再臨」で、地上に取り残されないよう、自らの「義」を吟味しなくてはなりません。

第3章  神様が用いる手段は「血の契約」 

全能の神様との霊の繋がりを「法的根拠」とするには、イエス・キリストを仲保者とする「血の契約を結ぶ」ことです。これ以外に方法はありません。

「ヨハネ」14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのち(著者注:生きた者同士の関係性)です。わたしを通してでなければ、だれ一人も(その霊が)父のみもとにくることはありません。

この言葉の真意は、主イエスと「血の契約」を交わさなければ、神様との[霊的関係性が成立しない]という、キリスト教の第一原則です。

しかし現代キリスト教において、この最重要の霊的法則が人間化されてしまい、イエス・キリストに「頼りすがる」のを信仰だと称しています。ですから神様は、あなたが正しい知識を得て自由意志で決断し、行動することを我慢強く待っていてくださいます。

ここで回り道になりますが、新約時代の神様と人との関係性として、なぜ「血の契約」なのか? を、「乳=かみ砕かれた基礎知識」として歴史的背景を知りましょう。

新約時代になると、[神様はすべてを赦す愛の神に変わった]などと、多くの教会で言っていますが、神様の性格は永遠に不変で、公平・公正・義の方であり、旧約時代も新約時代も変わったわけではありません。それなのに神様の性格が変わったように感じられるのはなぜなのでしょうか?

【前回の記事を読む】救いの根拠が「十字架=罪の赦し」である受け身の関係性から脱却する!