安定した生活から一変する2015年
しばらく、母の生活は安定していましたが、2015年になり、地域で気丈さ故のいろいろな課題が噴出しました。例えば、銀行のATMで、暗証番号を忘れ、現金が引き出せず、それに怒り、ATMを蹴っ飛ばし、女性行員から妻に電話が。
近くの電気屋で購入したミキサー。そのなかに、大量の野菜や果物をいれて、機械が故障。それを購入した電気屋まで持って行き「どうなっているのよ」とものすごい剣幕だったようでした。
前に述べましたが、母は苦労を重ねていて、その苦労は性格の強さに結実しました。この強さが、母の一人暮らしを支えてきたともいえるかもしれません。しかし認知症になり、いろいろなところで生活の困難をきたすなか、その強さが攻撃性につながっていた側面があるのではないかと思います。
弱さを受け止めて生活することが人間の安定にとっては大切なように思いますが、弱さを受け入れるというのは、自分の中に確かな安心感や誰かへの信頼感が必要でしょう。そう考えると、母の一人暮らしは、不安ばかりが煽(あお)られ、だからその向かう先には攻撃しかないようにも感じました。
一人暮らしの終わりそして同居の始まり
この年の7月を過ぎた頃から我が家への母からの電話が多くなりました。明らかに不安そうな状況でした。そしてこんなやりとりが妻との間でありました。
母:「あなたたちが、こっちに来て住んでくれない」
妻:「それはできない。でもばあばあがこちらに来るならば大歓迎」
このやりとりを私は横で聞いていましたが、そのときこれから始まる同居介護について思いを馳せることはありませんでした。振り返って、妻と母との同居介護について話し合ったのかどうかさえ記憶にはないのですが、妻がいうには「まもちゃんもいいといってくれた」と言うので、そうなんだなと思っていました。
実は私は高齢者福祉の現場や教育の場に身を置いていたので、実際の在宅介護ができるということはある意味のわくわく感もあったのは事実です。元来、私は「わくわくする」ことに突き動かされて生きてきた人間ですから。
よくこんなことを同居介護が始まってから講演でいってました。
「高齢者福祉の研究者はやまほどいる。高齢者福祉施設等での実践を踏まえた大学の教員もいる。ただ、自宅で親を介護して教員になっている人間はそう多くない……」
私の中ではこの段階での施設入所は全く考えていませんでした。