2015年12月11日(金)

死ぬって、難しいね

昨日は大阪へ行った。割と重要な話があって、協議そのものは日帰りの時間内に収まるものであったが、顧問会計士の先生が帰ったあと更に話したいものが出るかもしれず、1泊の予定をしていた。

午後に大阪から良子に電話し、様子を聞くと、「まあまあ」という。その声音が沈んでいた。仕事は順調に結論が出、私は宿泊をキャンセルし横浜へ戻った。

昨日日帰りして正解であった。帰ったとき良子は既に寝ていたが、「お父さん、今日帰るよ」とあい子が言ったら、「よかった」と答えたそうである。自分の要求をほとんどしない女であるが、帰ってほしかったのであろう。

今日は未明から強い雨が断続的に降り、時折突風が吹いた。近接するM高校のケヤキと銀杏の落葉が、道路を覆った。

9時に風雨の中をT医院へ行った。丸山ワクチンA液を射って頂いた。良子一人では来られなかっただろう。

午後1時が、癒着剥離手術の傷跡の点検であった。私たちは12時に病院へ行った。

11時頃、雨は上がり青空が広がっていた。台風一過の感じであった。初夏を思わせる気温で、湿度も高かった。

「傷は順調に恢復している」ということであった。それは良子も体感として語っていた。

M氏から、喪中ハガキが届いた。奥さまが、「5月の末に大腸がんが見つかり」、「11月21日に他界いたしました」とある。入院もお亡くなりになったことも知っている。

素晴らしい女性だった。あまりに早いお亡くなりに、私たちは驚いた。発見からなくなるまで半年である。

見つかったとき、既に末期だったのだろうか。病院へ行ったら即座に入院手術したと聞いた。それでもダメだったのか。ご葬儀が11月25日に行われ、私は大阪での株主総会、そして良子の緊急手術で横浜へ引き返した日だった。

良子の場合はどうであろうか。みなと赤十字病院に緊急入院したのは9月12日、「横行結腸がん」の手術をしたのは11月2日である。50日余の間隔がある。実にのんびりしている。

悪く取れば間抜けであり、よく取れば、それほどの緊急性がないということである。あるいは完全な手遅れなのか。

「死ぬって難しいね」と良子が言った。

「私は70迄生きたから、もう満足やけど。お父さんに、やりたいことは全部やらせてもらえたし。余り迷惑かけずに死にたいわ」
「迷惑はなんぼかけてもええから、生きてくれ」

私も74年近く生きた。この状態で妻子に看取られ平穏に死んだら、あまりにうますぎると思っていた。戦争をまるで知らない一生は、世界史の中でも稀有なことであろう。何しろ父母以外の死人を見たことがないのである。

まったくの幸運から、経済的にはほぼ裕福であった。自分が努力した訳ではない。商売についての若干のセンスはあったと思う。

これは持って生まれたもので、努力には比例しない。姉という強烈なオーナーに使われて、私自身は時折反抗したが都度ねじ伏せられ、結果として無事な人生を送れた。

「お前がいて、今の私がある。お前がいなくても、別な形で、私は何とかなっただろう。しかしお前は、私がおらんかったらどうにもならんかった」

悔しいけれど姉のその言葉通りであることは、私がよく知っている。姉は私の名付親である。オシメを作り、七五三の袴を縫った。姉であり母であり師であり上司である。どうにもならん。

良子は、お茶、お花、俳句をする。お茶は裏千家「準教授」の資格を持っている。名を「宗良」という。お花も草月流師範で、名を「紅蕾」という。彼女がやっていることに、私は無能である。

私自身は、コンサート・ホール、劇場が主で、クラシック音楽、オペラ、バレエ、歌舞伎、各種演劇を楽しんでいる。一人ではつまらないのであい子に付き合ってもらっている。

良子は自由にやり、私も自由にやってきた。これが平均とは思わないが、かと言って、大金のいるものでもない。

そしてありがたいことに、一貫して、その程度の収入はあったのである。良子との共通の楽しみは「旅」とそれに伴う「食」だった。その共通の楽しみが脅かされている。

一人で旅して、何が面白かろう。一人で食べて、何がおいしかろう。良子が必要だ。