もう一基の句碑は既に上部が斜めに大きく欠けているが裏面に安永七年とあるから一七七八年、江戸時代のものである。そして以下の記載がある。
「翁、尾州名古屋に春をむかへ、その頃當社の院主翁に殊更したしかりければ、文通に左の發句をそへ送られしよしを傳へききて今爰に誌しととむ」
蓬莱にきかばや伊勢の初便り はせを
碑の建てられる百年ほど前、花園神社の院主が芭蕉と親しくしており、名古屋から送られてきた芭蕉の書状にこの一句が書き添えてあった、という説明である。続いて内藤新宿旅籠屋中、茶屋中として数人の名が記されている。
当時のこの辺りの旅籠、茶屋の主人たちなのだろう。当時この辺りが宿場として賑わっていた頃、男たちだけでなく、茶屋勤めをしていた女性たちまでが芭蕉に学び、俳句を嗜んでいたという。
江戸時代、徳川家からこの辺りの土地を拝領した内藤家はここを甲州街道の新しい宿場として整備した。新宿の地名の由来である。
内藤新宿が多くの茶屋、旅籠で賑わっていた頃、宿場の周囲では盛んに赤唐辛子が栽培されていたらしい。江戸時代庶民に好んで食べられていた蕎麦には唐辛子は付き物であったから、「内藤とうがらし」として一大ブームとなったのだそうだ。唐辛子が色付く頃には真っ赤な畑が新宿中に広がっていたという。
大都会と化した今の新宿では想像が難しい。その後歴史と共に唐辛子畑は新宿から姿を消したが、最近この赤唐辛子を復活させる内藤とうがらしプロジェクトが発足、江戸東京野菜として認定されたという。
花園神社の赤い鳥居と鮮やかな朱の社殿、有志が復活させた赤唐辛子の畑、今も若者の熱気を包む芝居小屋の紅テント、新宿の赤色の三題話では無いがそんな新宿の歴史をひっそりと芭蕉の発句の句碑が二基、花園神社の紅テントの傍らで見守っている、ふと私にはそんな気がしたのである。
二〇一八年 五月