きっと私たちは強くならなければならない。そこにあるべき観念は、損得によるものではなく、真実によるものであるべきだ。なるほどここは愛を彷彿とさせる場面であろう。
愛とは契約であり、またそれは、厳しい人生を切り抜けていくためには不可欠な精神の最高到達点。至上の美徳。
この第二章では、克服されなければならない過去故に、幾千の孤独を潜り抜けてきた者たちだけが知り得る、棘の裏側にしか存在しない悟りの境地が記されることとなる。
喪失により目覚めた者は、好むと好まざるとにかかわらず、必ずや渡らなければならない橋に遭遇する。その時、その者たちは、自分が神により選ばれた者であることを自覚するわけであるが、しかし彼らが見る深淵の、何と暗く絶望的なことか。
そこに恍惚などはなく、ただ「もう逃げられない」という思いと、「腹をくくれ」という、もう一人の自分の呟きが、当分の間意識上において繰り返されるだけである。神はなぜ私を選んだのか? その答えはこうである。
それは貴兄が弱いからだ。残酷な神は、強く、世間の荒波を容易に突破していくような器用なタフガイには、決して試練を課さない。弱く、契約を必要とする迷える子羊たちにこそ、試練を課す。しかも、そこにあるはずの救済については沈黙を保ったまま。
では、そのような残酷な神を信じるには、私たちには何が必要なのか?それが喪失である。
すべては喪失から始まる。だが、自ら喪失を望む者などいない。だから神は、そのような者だけを選抜し、そのような者だけに試練を課すのだ。
お前は弱い。だからお前には契約が必要だ。だからお前は、喪失を経験することによって目覚めなければならない。いったい、何に目覚めるのか? ついにこの言葉が登場する。
信仰
そう、この書は、この言葉を、私と彼との間において確認するためにこそ書かれているのだ。文明が如何に進歩しようとも、また拡大の論理が人類(ホモサピエンスだけではない!)の本質を如何に覆い隠そうとも、善は信仰によってしか担保されない。
そして、善とは普遍である。この書に登場するたった二人の人物は、にもかかわらず、二つの絶対を示唆している。一つは自分であり、もう一つは神である。
この絶対的なつながりが、善という担保を、神の沈黙にもかかわらず私たちに確信させる時、いやその時のみ、私たちは永遠を知る。
そしてそれらはすべて、今この瞬間における個々人の判断そのものによって左右されていくのだ。ここに、timefreeの概念を差し挟むことはできない。