Ⅰ レッドの章
軍港跡の町
話をあの時代に巻き戻そう。あのころの日本は敗戦の憂き目に遭い、自信喪失と貧困の中で日々の暮らしに追われていた。僕はいわゆる思春期に差し掛かったばかりだったが、それが難しい年頃だという自覚は自分ではまるでなかった。
父は元々京都の出身で、戦前は京都の病院に勤めていた。終戦の二年前にすでに四十歳がすぐ目の前だったのに召集されて出征した。だが運よく外地には飛ばされずに仙台の兵站(へいたん)基地に配属になった、という便りを母は出征の半年後に受け取った。
後で分かったことだが父が応召になった時に、係官の手元の兵隊の配属先を記した紙をチラリと見たら、父の一枚下の兵の行先は沖縄と書かれてあったそうだ。まさに紙一枚で僕ら兄妹は父のいない子供たちになるところだった。
父の医学部の後輩は沖縄戦で戦死している。看護婦たちと共に洞穴で自決したと聞いている。
母は戦時中の食糧危機の中をどうやって材料を手に入れたのか、饅頭(まんじゅう)をこしらえて仙台まで差し入れに行ったらしい。内地の軍隊も食糧不足で、父にとっては貴重な差し入れだったに違いないが、お茶も水もなく、しかも面会中に食べなくてならず(さもないと他の兵隊に取られてしまう)、父は目を白黒させて饅頭を喉に詰め込んだそうである。
僕らは母の実家のある島根に疎開した。だが京都は戦災に遭わず、島根より余程安全で疎開の必要はなかったことが後で分かった。これも後で分かったことだが、日本を知るアメリカ人が京都を戦火の犠牲にすることに反対したお蔭で、京都は戦災を免れたと聞いている。
後にべトナムで起こったことを振り返ると、あの戦争の時、アメリカには余裕があったのだなとつくづく思い知らされる。
疎開先の生活は僕たち家族にとって愉快なものではなかった。父は出征前に「この戦争は負けだ」と言った。
口外するなと言われていたにもかかわらず、僕は疎開先の国民学校で父の口移しに日本の敗戦を口走って、級友たちに襲われ、ポカポカに殴られた。担任は止めに入ろうとはしなかった。
やがて戦争が終わり、価値観が百八十度転換して、僕は教師や他の大人たちの変節を目にし、世の中の権威というものに疑いの目を向けるようになった。その姿勢は今でも変わらない。
戦争が終わった時、僕は国民学校の五年生だった。戦争に負けて、ある者は肉親を失い、またある者は家を焼かれ、皆貧しかったが〝七千万総玉砕〟の呪縛から解かれて、まるでつきものが落ちたような、諦めに似たさばさばした気分が地の底から湧き上がってきた。
灯火管制が解かれ、夜でも明かりがつけられるようになり、辺りが急に明るくなった感じだった。ラジオからは『リンゴの唄』が流れ、喪失感とは裏腹な妙にからっとした空気が町に漂っていた。