僕たち一家はひとまず戦災を免れた京都に戻ることにした。父の消息はまだ分からなかったが京都には父の家族がいたし、三歳上の兄は京都のミッション系の中高一貫校に籍があったからだ。そこで僕らは父の帰りを待った。敗戦から三カ月、運よく父は無事帰って来た。

内地とはいえ二年近く父は家を留守にしていたので、妹は兵隊姿の父を見てはにかんで母のもんぺの陰に隠れた。だがひと月もすると大のお父さんっ子になった。

この五歳下の妹を僕はよくからかったりいじめたりして遊んでいたが、鶴前に引っ越してから急速に妹への興味を失っていった。彼女が父という後ろ盾を得た為だったのか、それともその後僕の身に起ったあることを契機にそうなったのかははっきりしない。

いずれにせよ僕はその辺を徘徊している腕白坊主から、もの想う若者に脱皮しつつあったのだ。

東京裁判のラジオ中継は京都で聞いたように記憶するが、父は熱心に耳を傾けたものの、その結果については言葉少なだった。

ただ東條英機の自殺未遂と、裁判での大川周明の気のふれたような狂言劇には、「こんな奴ばらに日本中がたぶらかされていたとは」とつぶやき、裁判にかけられる前に自決した近衛文麿(このえふみまろ)には「さすがアリストクラートらしい誇りを示した」とだけ言った。

裁判の結審からわずか一カ月半でA級戦犯七名の死刑が執行されたが、多くの日本人は敗戦の記憶をどこかへ押しやりたがっており、大した騒ぎもなく事実を冷静に受け止めたらしかった。

復員後職探しに苦労した後に、父は日本海に面する鶴前の国立病院に仕事を見つけた。兄は京都で学業を続けることになり、叔父の家に預けられた。

叔父も無事復員して京都の病院に復帰していた。両親と妹の家族四人で僕らは鶴前に引っ越した。学校が休みになると兄も合流した。

戦争が終わって四年目の春のこと、日本の戦後処理は道半ばで、その一方で巷にはひところはやった『リンゴの唄』に取って代わって『東京ブギウギ』が流れていた。

鶴前は日本海側の若狭湾の入り江に面した元軍港の町だった。戦時中は米軍の空襲の標的にされ、防空壕もあちこちに掘られていた。

空襲の規模は大阪や神戸ほどではなかったというが、それでも戦争末期に軍需工場がアメリカの爆撃機によって空襲に遭い九七名が死んだという。

実は広島への原爆投下の予行演習だったと後で知らされたが、当時の鶴前市民にはそんなことは想像力のかなたの出来事だった。港に繋留されていた輸送船も爆撃にやられた。

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