序章 旅立ち

清らかな白木造りの伊勢大神宮を守るように深々と茂る杜(もり)が夕日に染まり、神路山(かみじやま)の山々の柔らかい稜線が薄墨色に浮かぶ空に、まだ白い満月が上り始めた。

薄汚れた山伏装束に身を包んだ一人の若者が、伊勢神宮の社務所に立ち寄った。夕暮れの神殿を前にして、まばゆく輝く黄金作りの太刀を両手に捧げている。供周りには一癖ありげな僧兵や、旅の商人風の男らが控えていた。

若者は、社務所の神官に太刀を差し出した。神官は、みすぼらしい山伏の若者が何故こんな光り輝く太刀を持っているのか、と当惑した。

伊勢神宮は皇祖神(こうそしん)を祭る神社である。怪しい者とは関わり合いたくなかった。神官が何か口を開きかけると、若者は低いが力のこもった声で告げた。

「壇ノ浦の陣太刀(じんたち)にございます」

奉納帳を差し出す神官の手が小刻みに震えるのを後目に、若者は太刀を左手に提げたまま、勢いのある筆で記帳した。

「左衛門少尉源義経源」

文治二年(一一八六)三月十五日のことである。一年前の三月二十四日、源義経は壇ノ浦でこの太刀を振るい平家を滅亡させた。だが早くも同年十月には兄源頼朝に追討を布告され、十一月には後白河院より追討の宣旨(せんじ)も出されて、義経は追われる身となった。

義経主従は吉野や熊野の山々に隠れ、逃避行を続けていたのである。熊野、金峰山(きんぶせん)、大和、河内、伊賀、紀伊、阿波、そして、ここ伊勢の地にも、義経を捜索せよとの宣旨が下っている。

伊勢神宮の神官も、もちろんその事を知っていた。奉納を受け入れれば、後でどんなとがめを受けるかも知れない。神官はそれを恐れた。