【前回の記事を読む】「贅沢撲滅運動」に抗議すると特高警察がやってくる…。そんな時代から何を学ぶか
第一章 過去の足跡 先人の努力を見る
『背中の勲章』吉村昭 新潮社一九七一年
敗戦後の捕虜の心境、日米の違い
敗戦とは言わば日本国民全員が捕虜になったのも同じであり、外地で捕虜になり帰還した者と同等なのである。しかし、帰還した彼らは肩身が狭かったのである。
吉村氏はこのような場面も極めて冷静に自己の感情を抑えて淡々と小説にしたためている。そのためこの小説は非常に格調高いものとなっているのだ。
私は先の戦争では日本は負けて良かったのだと思う。天皇という大元帥(陸海軍の最高指揮官)の存在及び、それを担ぎ上げる軍部の精神論これが日本国民を不幸のどん底に落とし込んだ原因であったのだ。
今、北朝鮮の状況がかなり明確に伝えられるが、戦前の日本もこれに勝るとも劣らずのやりきれない状況であったのである。
映画『掘るまいか 手掘り中山隧道の記録』 橋本信一監督 二〇〇三年
村人自らが作ったトンネル、村民の協力
一九三三年から十六年の歳月をかけて、新潟県山古志村の村民が日本最長の手掘りトンネルを完成させた。この映画はその記録である。
山古志村は、比較的開けている隣村まででも片道十二丁(約一・三キロ)の山道を歩かねばならず、冬場は雪に閉ざされ、病人が出ると人の肩に背負われてその雪の山道を越えねばならなかった。
そのため多くの病人は助からず、また、雪道で遭難もした。その状況を悲しんだ村人の一人がトンネルを掘ろうと提案したのだ。誰しもが思っていながら口に出せなかったことであり、そのことで村は二分され、推進派と慎重派に分かれてしまった。
推進派は市や県に陳情にいってもなかなか取り合ってもらえず、とうとう自分たちで掘る事を決め、掘削を始めた。
トンネルの延長は約一キロメートル。掘削は片刃のつるはし。二人ならんで人力で掘っていくのである。
山は比較的堅い軟岩であった。掘削速度は一日に三十センチしか進まなかった。