しかし、介護は誰もが経験するものでもなく、それをまぬがれる生人もたくさんいることだろう。

生人は全く不平等な生き方をするものだ。大抵その比重はひとりに課せられることが多い。

面倒を見ないと決めてしまえば良いのだろうか。

一生懸命な生人、関わりたくない生人、知らん顔の生人。

兄弟が何人いても、ひとりに集中的な攻撃が常である。

その毎日を日々送る生人はむしばまれ、ただのぞく生人は「また来るね!」などと言って笑う。そのつらさも知らないまま。誰かがやれば、他の誰もやらない。

踊って踊って赤い靴。脱げない赤い靴。 

自主的に履いてみたけれど、やはり簡単には脱げない赤い靴だった。

やはり、助けてはもらえない。生人が死人になってやっと脱げる靴だった。

どちらが先に逝ってしまうのかもわからなくなるほど過酷なものだ。

もう、身を削りすぎて誰かのために身を捨てることなどできないと思うが、自分のやってきたことは全てやりたかったからやったこと。やりたかったからできたこと。誰のせいでもない。

やらされたのではなく、自分がしたことだから、自分を助けるのは自分だ。

自分の責任は自分でとる。

この世には手錠をかける人、かけられる人、恩を着る人、着せる人、がいるものである。

自分は決して、かける人や着せる人にはなりたくない。

【前回の記事を読む】毎日病院に向かうのは、縛られている父の腕を自由にするため…。過酷な介護の体験