両国橋

 

東京、隅田川に架かる両国橋のたもとに少々無骨な大ぶりの文字が彫られた石柱の句碑がある。

日の恩や忽ちくだく厚氷

忠臣蔵四十七士の一人、大高源吾の句と伝わる。昭和三年地元有志によって建てられたと句碑の裏面にある。本所松坂町、吉良上野介の屋敷跡はこの両国橋からほど近い。時は元禄十四年極月中の十四日……有名な赤穂浪士吉良邸討ち入り事件が起きた。

吉良邸に隣接する両屋敷は、討ち入りを知ってもお上に通報もせずに吉良側に助太刀することもなく見守ってくれた。その温情に対する礼として大高源吾が事件後送った句と伝わるが確証はないようだ。芭蕉十哲の一人、宝井其角が討ち入りの餞に

我が雪と思へば軽し笠の上 其角

と送った句に対して源吾が詠んで返したものという別の話もある。この事件のファンであった江戸っ子俳人其角が、源吾の一句をこじつけた作り話というのも一理ある。

但し、大高源吾が「子葉」の号を持つ談林派の俳人であったことは確からしい。歌舞伎「松浦の太鼓」など忠臣蔵物には其角と源吾との両国橋での有名な一場面がある。討ち入り前夜、煤竹売りに身をやつし吉良邸を探る大高源吾の事情を知らぬ其角が、思わず

年の瀬や水の流れと人の身は

と一句をつぶやく。それに対して源吾が

明日待たるるその宝船

と返したことで、其角は討ち入りの決意を察するという場面である。

貞門俳諧に抵抗して、連歌の余技として、この討ち入り事件の頃を中心に一時期流行した開放的遊戯的俳諧が談林俳諧である。蕉風俳諧の台頭とともに急速に衰えたらしいが、浄瑠璃、歌舞伎、俳諧など自由な文化が台頭した江戸元禄という時代の片鱗がこんなエピソードからも感じ取れる気がする。

日本のどこかで忠臣蔵の話が演じられる季節が、又今年も近付いた。