四十

未来の美術はどうなっているのだろうか。今とそれほど変わっていないのか、あるいは全く別の世界に突入しているのか。

今もミケランジェロもダ・ヴィンチもフェルメールもピカソもウォーホルも同じ美術のステージ上でその価値は変わらない。ということは、あと百年、千年後も、彼らは変わらずに美術のステージ上に居続けるはずだが……………。

彼らの後を追いかけていても新たな未来のアートは発見できぬか、彼らを検証することで未来のアートが見えてくるのか。

しかし、まてよ、修作がアートに求めていたのはそういうことだったのだろうか。彼自身の救いや祈りや支えのようなひどく私的で個人的な、カテゴリー/メタファーではなかったのではないか。いつの間に評価や評判や人からどう見られるかというようなことにきゅうきゅうとした、カテゴリー/メタファーにすり変わってしまったのか。

いずれにせよ、現在を精一杯進むこと以外にない。

四十一

八月の暑い日だった。

路地を虚ろに帰ってきた。駅から灼熱の午後、疲労が足にまとわりついて、吐き気とめまいを起こしそうだった。

ようやくホコリを靴先で跳ね返しながら錆びつくドアの前にたどりつく。朦朧とした意識下に予感とともにそれを見つめ、スッと指先にとらえて、まるで誰かに並々ならぬかなわない寝場所を背後から見られてはなるまいといった心情が膨らんで、抱きかかえながら素早く躰を隠すように入った。

たどたどしく振る舞う指標にたたずんだまま目でたどる。ささやかな一日の終わりに。

再生には長い年月がかかるけれど千年の宴を待つ。千年後の人間に、(それまで人類が滅亡していなければね、いいんだけど)危うい賭けだよ。誰も滅亡なんて望んじゃいないよ、だけどどう見たって先が見えてる世界じゃないか、同時代に生きるものとしてそう思うだろう。

今はただ一緒に遊んで蠢こう。照れくさいよなんて言わずに。太陽のマグマがもえさかるように、言葉の持つエネルギーに躰の奥が熱くなってくるはずだから……。

【前回の記事を読む】忘れぬうちに書き留めようとするが、次の瞬間、言質はすり抜けて、もうやってこない。