当時、銀行は、同調圧力や横並び意識が強く、上司の好き嫌いやパワハラも多く、同期でも魅力的な人がつぶされていた。
営業だけで勝負すると誰にも負けなかった。今では、営業が天職になっている。一方では、銀行の幹部といわれる人たちから高い評価を受けた。頭取や副頭取クラスとプライベートのはなしができるような機会を頂いた。いろいろなお話を頂いたが、自分の考え、「自己実現」を最優先した。せっかくの打診を断るのは勇気がいった。本部のしごとや頭取から有力企業への戦略的出向などはなしがあった。
アメリカ研修旅行では、総合研究所社長(もと副頭取)に大変お世話になった。シリコンバレー企業、ニューヨーク大学、スタンフォード大学など訪問、日本と比較することができた。途中の社長との会話も貴重だった。今、東大生など就職先人気企業で大手コンサルティング会社が軒並み上位を占めている。わたしはこのころからコンサルティング会社に注目していた。総合研究所(シンクタンク)は8年間お世話になった。当初から希望していたキャリアだ。経営から声をかけて頂いた。
◎母の影響を受ける
学生時代からアルバイトをして株を少しずつ買った。大正生まれの母の影響を受けたのだ。軽い気持ちで受けた有名私立大学の付属高校に合格して、お金を心配すると、母は「一つの銘柄を売ったら払えるから大丈夫」とにっこり笑った。京都の田舎から寮生活を伴うもの、親には今でも大変感謝している。
◎社員は自分の株をやってはいけない
就職は、最大手N証券を受けた。関西の一流といわれる国立大学の学生が集まっていた。集団面接や健康診断も無事終わり、所属部署を決める役員面接で、「社員は自分の株をやってはいけない」と厳しく言われたのだ。仕方がなく、帰りに立ち寄った都市銀行に決めた。成長経済が続く中、銀行は忙しかった。
◎何年か勤めよう
友達から「銀行は管理が厳しく、しごとが面白くない。君は半年も持たないだろう」と言われたが、ゼミの先生から「君の一番弱いところかもしれないが、まず、金融を勉強してみたら将来きっと役に立つと思う」といわれ「何年か勤めよう」と決心したのだ。
ゼミの先生、後に、著名な国立大学の教授、他大学の学長をはじめ要職につかれた。わたしを評価していただき、大学のしごとにつながった。「君は成長したなあ」「楽しいだろう」が、先生から頂いたことばだ。
◎株がカンフル剤に
遅くまで働き、週に2 ~ 3日宿直室に泊まった。親しい同期が次々と銀行を去った。こんなとき、わたしにとって株は、しごとや生活のカンフル剤となった。刺激があり、気分転換にもなった。ニュースや身の回りのいろいろなことにも興味を持つようになる。次第に、経営者や資産家と進んではなしができるようになった。
一歩外に出ると別世界があった。何年か経つと、「吉野さんは銀行員ではない、投資家だ」ということばが内外から耳に入るようになった。銀行の常務から「株はほどほどにした方がいいよ」、好意的なことばを頂いたこともある。
〈参考〉ハイブリットキャリア→会社員(銀行員)でありながら他の収入や知識を得て「自立できる道をつくっていくこと」わたしは若いころから身についていた。最近、注目されるようになった。