黒き尉面

天文一九(一五五〇)年二月十六日早朝

夜半からの雪も止み、外はまだ静かで、西の空に満月が輝やいている。申楽(さるがく)師宮王三郎鑑氏(あきうじ)は、襟を正して、床の間に向かい端座している。三郎は高名な茶人でもあった。

床には「虚堂智愚(きどうちぐ)」の墨跡が掛けてある。

『達磨忌拈香(ねんこう)語』と呼ばれる大横物は、現在国宝に指定されている。大徳寺が所蔵している至宝の墨跡である。大小四枚の紙が継がれ、五文字一五行奥四字、表具は上下が茶北絹、中廻が浅葱色、一文字風帯は紫金襴(きんらん)。印が一つ在る。

春半ばとは言え彼岸前である。風炉には、姥口(うばぐち)(歯が全てなくなった老人の口)の平釜が透木 (すきぎ) に乗せられている。平蜘蛛と称されるこの釜は羽根の下に透木と呼ばれる木片を挟んで風炉にのせる形で使用される。静かな松風と称される煮え音が、客待ち顔である。

囲炉裏の時季ではあったが、「虚堂」には是非とも風炉で対したかったと三郎は思った。現在の茶の湯は、風炉の季節(およそ五月〜一〇月頃)と炉の季節(およそ一一月〜四月頃)に分けられているが、中国から伝えられた時は風炉のみであったからである。

東雲(しののめ)の頃となり、外に人の気配が感じられる。宗易は静かに水屋を出て、庭の飛石に昨夜から被せておいた笠を、周りに雪が飛ばないように慎重に外していった。

客は天王寺屋の当主津田宗達、真松斎春渓の二人。宗達は三郎と同い年の四六歳。堺の茶の湯の重鎮である。昨年の正月、三郎は兄の宮王大夫道三と共に、宗達の茶に招かれている。今朝はその「返し」の茶会である。

後世「宮王肩衝(かたつき)」と称される茶入など、名物道具も少しずつ手に入るようになった。茶の湯は一七歳年下の宗易に学んでいる。逆に宗易は、三郎に謡を学んでいる。今日の平釜も、宗易のあつらえである。昨夜の準備からずっと、妻の「りき」と共に水屋に控えてくれている。

宗達は、三郎に挨拶をした。

「早朝よりのお招き、恐悦至極でございます。三郎様とは一年振りでございます」

「昨年の正月二三日の朝会には、兄道三と従兄弟の森河の三人でお招き頂きました。誠に楽しいひと時でございました。又帰りには兄共々小袖を頂戴し、感謝申し上げます」

「脇方の道三様、太鼓の森河様、そして小鼓の貴方様と、名人三人との申楽談義は本当に楽しゅうございました」

と言いながら、宗達は庭の方を見やった。

「昨夜からの冷え込みに雪を思い、庭の風情を楽しみにして参りました。雪見の茶は、茶人冥利につきます。石に被せておかれた笠を外した景色は、実に見事でございます。三郎様も、お持ちの道具に相応しい茶人振りでございます」

宗達は水屋に聞こえるように話を続けた。

「宗達様は全てお見通しでございますな」

「それにしても見事な掛物。一文字ずつに気迫を感じます。どなたの墨跡ですか」

「虚堂と聞いております。達磨大師の命日に、香を焚いた際の()のようでございます」

「これまで幾つかの虚堂を拝見致しましたが、これは白眉といえますな」

「虚堂の書を重く扱うのは、如何なる理由ですか」三郎は宗達に尋ねた。

「虚堂智愚は、中国南宋時代の禅僧です。三〇〇年程前の方です。『中国五山』という最高の寺格を持った禅寺の中の阿育王寺、南山浄慈寺、径山(きんざん)寺という三つの住職を経験した傑僧と伝えられています。日本人僧で虚堂智愚に参禅した者は多い。中でも南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大応国師)は、その法を継いで帰朝し、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師)に伝えられた。その宗峰妙超が大徳寺を創建されたわけですから、虚堂智愚の墨蹟は、茶の湯の世界で古来より重んじられていると言う訳です」

「ありがとうございました。よく解りました。この軸を手にしたからは、益々精進せねばなりません」

水指は真塗りの手桶、建水は甕の蓋、青磁の平茶碗に濃茶が点てられる。

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