第三章 亡くしたもの
亜希子はまるで男の子のような遊びに興じる子で、父邦夫とはよく虫捕りにも行った。父邦夫はこんなにも早くその手の話を耳にするとは、思っていなかったのだろう。亜希子の心の中にはこの宝箱が、いつでも輝いていた。母佐知子が相変わらず亜希子を脅かしてもそれに癒されるように過ごす亜希子に、郁子は安心していた。
ところがそんな亜希子の年月も中学、高校、大学ととうに過ぎ去り、看護師としての数年が経ったある日のこと、亜希子は帰宅するや否や自室に篭ってしばらく出てこなくなってしまった。
部屋の中からは今まで亜希子から感じたこともないような感情の渦が、出口を探すようにして蠢いていた。その手触りすらも解るほどの強烈な何かが、離れた部屋にいる郁子の元にまで伝わってきた。郁子はそのことに戦慄を覚えていた。直ぐにでも亜希子の様子を見に行きたいのに余りにも強烈な亜希子の感情が、郁子が部屋に近づくことすら許しはしなかった。郁子は亜希子が落ち着くのを待つしかなかった。
きっと夜になったら、また亜希子の部屋を覗きに行こう。それが郁子の精一杯の思いだった。それを余所に、亜希子の感情の渦は三日三晩経っても、一向に収まる気配を見せなかった。
郁子がこのことを一番に相談したいと思っている父邦夫は、この十年間、パーキンソン病の進行を止められずにいた。車椅子から寝たきりになり、やがてまともに食べることもできなくなった父邦夫は、あっという間に衰えていった。
在宅での誤嚥は厄介で、命にも拘ることだった。医師に口から食べることは諦めて胃ろうへの移行を促されるも、その席に郁子がいるというのにあの父邦夫がべそをかくようにして泣いた。父邦夫にとって郁子が丹精込めて作ってくれる食事だけが生きる楽しみで、それすらも奪われるのは耐えがたいことだった。その涙が相当にショックだった郁子に、亜希子の相談ができるはずもなかった。
亜希子は数日すると、またいつものポーカーフェイスで日常生活を始めた。しかし、郁子のことは騙し切れなかった。亜希子の心には、見るも無残な穴が開いていた。人とはこれほどの闇を抱えていても、平静を装えるものなのだろうか。その状況に気が可笑しくなりそうな郁子も、父邦夫の介護が本格化する中で、亜希子のことを慮るゆとりはなかった。この時、この亜希子の得体の知れない状況から、目を背けるしかなかったのだった。
郁子がその穴の意味を知ったのは、しばらくしてからだった。まだ四十代の父邦夫の死に打ちひしがれる郁子の心にも、亜希子と同じ穴が開いていた。
亜希子はきっとあのボーイフレンドを、かなり凄惨な形で亡くしたのだろう。亜希子の心の穴の様子を見るにつけ、郁子はそう確信せざるを得なかった。郁子が父の葬儀にも出られずにいる間、その葬儀で立派に立ち働いていた亜希子は、実は既に心の穴に潜むその狂気同様に正気ではなかったのかもしれない。