第三章 亡くしたもの
その頃の亜希子は、孤独の海の底にいた。寂しい気持ちなら郁子にも解る。解るものなら対処もできるというものだ。ところが余りにも計り知れない亜希子のその感情には、郁子を押し潰しそうなほどの質量があった。
この頃の郁子は亜希子のいない日中に昼寝をよくしていた。亜希子がいる夜は、このことが気になって眠れなかった。夜起きていると改めて気が付くことも多かった。亜希子は睡眠時間が短いようで、よく夜中まで勉強をしていた。そして同じく睡眠時間の短い母佐知子が、取るに足らないようなことで亜希子を叱るのだが、これが実に奇妙だった。
かつて郁子が参加した、近所の子どもの集まりでのことだった。その席で一緒になった男の子が蟻の触覚をむしっては、方向感覚を失い惑うその様子を楽しんでいた。郁子にはその男の子の行動と感情が噛合っていないように思えて、気味悪くてならなかった。その時の男の子と亜希子を叱る母佐知子が、たいして変わらないもののように思えたのは何故だろうか。
とにかく、大好きな亜希子が心配でならなかった。堪らず亜希子の部屋にまで覗きに行っても、毎度のポーカーフェイスでこのことをおくびにも出さない亜希子は、郁子の前ではいつでも頼りになる姉だった。
結局のところ、亜希子がこれほどまでに辛い思いをしていたところで、六つも年下で余りにも世間知らずな郁子がその助けになれるはずもないことを、思い知らされるばかりだった。もしかしたらこの時期は当の亜希子よりも、郁子こそが落ち込んでいたかもしれない。
郁子の物心がついた頃から、亜希子は自室でよく勉強をしていた。それは郁子と遊びながらのことも多かった。それに反して、この頃の亜希子は帰宅するや自室に引き篭り、夕食の時間になっても出てこないことが多かった。今まで自由に亜希子の部屋への出入りを許されていた郁子も、それが躊躇われるような近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。だからといって、郁子はそれを嘆くばかりではなかった。
そんな亜希子が一人きり凍えそうに過ごす夜には、寝静まるのを見計らってそのベッドへと潜り込んだ。そして亜希子の心が少しでも温まらないものかと、その小さな身体で背中を抱きしめた。
ただ、この時、自分自身を無力だと嘆いていた郁子のこの行動も、決して無駄ではなかったのだ。気付かれないように亜希子の部屋に侵入したつもりでも、その一部始終に亜希子は気が付いていたのだった。
泣きたいような夜に必ずといっていいほど繰り返される郁子のこの行動を、亜希子はどこか不思議に思いつつも、次第に心待ちにするようになっていた。
そして飼い犬が鼻をピスピスといわせながら、泣いている飼い主の頬っぺたを舐めにくるあの行動に、妹郁子の行動をなぞらえては「うちの妹、動物並みだわ!」などと心和ませていたのだった。
結局、郁子の特性を一番端的に理解していたのは、父親の邦夫でもなければ、母親の佐知子でさえもなく、姉の亜希子だったのかもしれない。