葉月も後半に入ったのにもかかわらず、蒸し暑さが一向に収まらぬ十七日の夕暮れだった。一台の青い軽自動車が、この怪しい建屋の前に停まった。暦では、とうに立秋を過ぎたはずだったが、まだまだ厳しい日差しに閉口しつつ、汗を拭いながら降りてきたのは、小さな車体にはまるで似つかわしくない大柄な男、土田有三であった。
顔を構うのも忘れたのか、無精髭に覆われた彼のご面相は、苦悩で歪み、憔悴し切った体のあちこちから、絶望の臭いが漂っている。今、まさに、すべての気力を振り絞り、やっとの思いでここに辿り着いたとの感であった。
ところで、有三は、じき還暦との声が囁かれし頃より、めっきり物忘れが激しくなっていて、本人もそれを密かに気に掛けていた。少しでも緊張を緩めようものなら、数時間前に部下から受けた報告の要が抜け落ちたりして、現在、彼が中心となって市が推し進めている駅前開発の進行に多少の迷惑を掛けることが度々生じた。
以来必ずメモ帳を携帯し、要件を書き留めるよう肝に銘じてはいたものの、ふと油断をすると、それすらどこかに置き忘れて探し回るといったあり様である。
ある夕食の折、妻を前にして、
「俺も、そろそろボケが始まったようだ」
そう言って今まで一度も口に出したこともない仕事場での失敗談の一端を示したことがあった。すると彼女は優しく微笑んで、
「そのようなことは誰にだってあることですよ。まだまだ、おボケになるような歳ではありません」
と、事もなげに答えていたものの、内心は、家でも思い当たる節があったのだろうか、心配を隠す素振りを見せていた。そして、目敏い有三がそれを見逃すはずはなかった。
役所には、地域はもちろん、外部の様々な機関や個人から膨大な情報が集まってくる。そのほとんどは、外に漏らしてはならないものであり、中には官民を問わず機関機密に関するものもある。当然それらを保管する責任と義務が生ずる。
もし、誤って漏洩しようものなら、行政組織の道義的、法律的責任が問われ、刑事責任ともなったら、膨大な賠償と、それ相応の処罰を受けることになる。したがって近年は、これら公共機関での情報管理システムなるものは、特に徹底を強いられていたのだ。