「ずっと東京にいらしたそうですね」

「ええ、大学に残っていました、本当はそのまま研究を続けたかったのですが、親父に泣きつかれましてねえ」

「ほう、やはりそうでしたか。あちらではお忙しかったでしょう、専門はやはり整形外科ですか?」

「ええ、そうです」

変形性関節症というのをご存じですか、ずっとその研究をしていたのです。そう言おうとしたのだが、何故かことばが出なかった。

老教諭の靴音がコツコツと響き、渋谷医師のスリッパがペタペタと呼応する。電灯の消えた廊下はひんやりとして薄暗い。外はもうコートが要らぬ程の陽気なのに、校舎の中はまるで地下室のように底冷えしていた。

ここで会おうと言ったのは教諭の方だった。そして今その背に従って歩いている。初めは職員室にでも案内されるのだろうと思っていた。そこで渋茶を啜りながら四方山の話をして、頃合いをみて辞することになる。そんなつもりでいたのだ。ところが一向にそんな気振りもない。

やはり目に入る光景に少しの親しみも持てなかった。二十年も経っているのだから当然のことだろう。教室の窓越しに見る整然とした机や椅子、入り口に掲げられた木札、そうしたものがなかったなら、保健所か何かと見間違えてしまいそうだった。前を行くのは実はそこの職員で、自分は何かの試験室へ案内されている、そんな奇妙な想像が湧き起こってきそうになる。

「どうです、懐かしいでしょう」

恩師の声が人気の無い廊下に響き、彼は曖昧に頷く。

「君が通っていた頃の先生方は、皆よその学校へ転任しました。ずっと残っていたのは私くらいのものです」

妙なことだが、そう言って振り返った顔を見て、初めて昔この人に教わったことがあるのだという実感が湧いてきた。