しかし黒崎耀子は片耳を押さえて話しているので、こちらの話は聞こえてはいない。

「それはそうと、エヴァ・エージェンシーのボスがね」

耀子は戸口に近いところへ大股で行って、さらに声を大きくした。

「今度あんたの写真見せてくれって。だめよ、昔みたいな贅沢言ってちゃ。何でも来た仕事、ハイハイって、こなしていかなくっちゃ。お互い、もうそんなに若くないんだからね。あたしこれでもけっこう、推してあげてんのよ。うまくいったら、成功報酬、ヨロシクね。そうそう、代官山のピラネージあたりで、シャルドネかなんか抜くのもいいわねえ」

耀子はサングラスを外して、胸のところに挟んだ。

睦子がふと裏庭を見ると、青白いアゲハ蝶がひらひらと日光の中を舞い、葉群の中の暗がりを通り抜けていった。黒い縁取りのあるアオスジアゲハだった。庭の隅の低木の葉裏に卵を生み付けにくるのだ。

この中庭のサンクチュアリへの訪問客は、多彩であった。色とりどりの野鳥や、幾種類かの蝉、蝶々、蜂、虻、蚊、蜘蛛、そして蛙や蜥蜴など。ひょっとしたら、ときどき、閑静な住宅街にも棲息しているということでニュースにもなっているハクビシンも、紛れ込んでいるかも知れない。

そしてまた、「民事介入せず」というのが、睦子の方針だった。この庭の生態系、昆虫や小動物たちの諍いには、女領主であるこの自分は、寛大にふるまい、決して介入しないのだ。彼らには、彼らの生きる権利と自由がある。それがこの宇宙の法則というものだ。もっとも、傷を負った野鳥や、暑さで石畳に這い出してもがいている蚯蚓を見つけたときには、そっと介抱してあげたり、土に戻してやったりすることもあるのだが。

ときおり睦子は、木の枝の先端をカッターで削って、桃や林檎など季節の果物を刺しておいた。ひと気のない朝などは、瑠璃色や苔色をした野鳥が、枝から枝へと飛び回り、小首を傾げて、餌を啄んでいた。そんな風景を見るとき、たまらなく愛おしくなり、心が柔らかい暖色系の色合いを帯びて広がってゆくのを感じた。

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