【前回の記事を読む】15歳の少女の祈り「神様への純すいな愛の心、希望の心を持ちつづけたら…」

15才(中学3年秋~中学卒業) 1971年10月27日(水)~1972年3月16日(木)

11月17日(水)

今日の宗教の時間、勉強のことについていろいろな話を聞きました。自分のために勉強をする、義務のため、自由だから、自分にある程度の教養をつけるために……などさまざまでしたが、結局は自分自身のためだということだったのです。

義務ということを考えている人は、まだ勉強に対しての考えが浅い。雙葉は入試ではなくて認定テストだから……再試験でがんばればいい……という考えをぬきにしてがんばらなくては。自分のための勉強だから。

そういうお話でみんな私も含めて、考えさせられたような気がしました。

11月23日(火)

勤労感謝の日でした。

玉野さんと映画を見に行きました。二度目の映画でしたが、一度目はあまりゆっくり見られなかったので、又見たいと思いました。

帰りにジーパンセンターで、母からお金をもらいジーパンを買って帰りました。とてもうれしかったです。

昨日、ダンテの神曲絵集を見ていました。想像もつかない死後の世界をありありとダンテが詩にしたものでした。私は、こんな所には行きたくないと一番最初に考えました←(地獄)。

でも、それだけの理由で神を信じているのではありません。もしそれだけだとしたら、私は何て高まんな、ずうずうしい女だろうと自分自身あきれてしまうでしょう。

それよりも、苦しめられているこの人達にも、地上では神の希望がかけられていたのに、どうしてその機会をふりはらったのか、私にはわかりませんでした。これまでに神は私達を愛して下さっていたのに、私達はどうして平気で、裏切ってしまうのでしょう。

やはり人間というものが弱いものだからでしょうか。時々人間とは何て恐ろしいんだろうと思うことがあります。

人間は弱いくせに強く見せたがり、調子にのって神をあなどる。そして弱くなってしまうと、急に神を求め、自分の欲望が達せられると、すぐに神をわすれてしまう。

本当にずうずうしいというか、調子がいいというか。神をそんなものに使っていて、それで神を信じてます、と平気をよそおうのです。いったいこの世に本当に神を信じ、したっているものはどれだけいるだろう。

範囲をせばめるにつれ、信者も少数だ。こんなことを書いている私もあやしいものですネ。本当に!

でも私は、本当に純すいに神を信じたい。うわべだけでなく、何の苦労も知らず、道を歩いている友、かわいそうだと思う時がある。私は幸せだ。幸せすぎる。

いいのだろうかこんなに幸せで! もっと苦しむべきだ……時々そんな事も考える。