11月27日(土)
またなやまされてしまいました。帰りのバスの中で、ふと自分の信仰について考えてみました。
なんのために神を信じているのか。ただの神だのみではないか。そして神を信じることによって、私はどんな益を受けているのだろう~などいろいろと……。
考えているうちにまよって来ました。自分の弱さのために神を利用しているのではないか。苦しいから、神に助けをかりる。〝その苦しみからのがれさせて下さい〟と……。
でもそれが達せられた場合、地上において私は幸せだから……神のことなど記憶にうすれてわすれてしまう、ということ。そして、苦しみによって神に祈ることを覚えました。けれども、いつになってもその苦しみ、恥じらい、悲しみからのがれられません。一生それは私につきまとうかもしれません。
そうなると、一体祈りで、何が幸せになるんでしょう? のがれることは不可能とわかると、いままで祈ってきた、助けをもとめてきた祈りは、一体何のための祈りになるのでしょうか? 考えてみるとバカバカしいと思いました。
それに、神は私を見すてられているのでしょうか。だって、何も私に命令して下さらないし、私の身近にはいらっしゃらない。ただ私の祈りと、行ないを見ていらっしゃるだけです。もっと私に何かすべきことがないでしょうか。
どうか教えて下さい。命令して下さい 何でもいたします。こんなことを考えている私ですが、結局は神を信じている、たよっているのです。あなたをおいてだれのところへ行きましょう。
もっと身近なことで〝神〟と感じることができるような行ないをやってみたいと思います。
11月28日(日)
告解をしました。
する前は、いろいろいやなことばかり頭にうかんで罪なことを考えていましたが、告解したとたん、とても楽しくなりました。勇気がわいてきたような気がしました。
そして何も目に入らず、何も聞こえずにただ遠くをあおいでいました。
こんな気持ちは初めてでした。
今日から待降節に入り、私達は改心の心で神、救い主イエズス・キリストを待ち望まねばなりません。イエズス様は、私達を救って下さるために地上におりていらっしゃるのです。救いをもとめましょう。
そして純すいな心で天の門をくぐられるように。