丹念に種を蒔いても、芽を出せない植物もある。思い通りに芽が出ても丹精込めなくては枯れさせてしまう。生人は誰かに大切に思われていたい存在。それは死んでいった人からでも、生きている人からでも、愛された記憶が欲しいもの。
自己の真実を追求する熱い心や、本当の愛情は親である生人から子である生人は学ぶ。家庭以外に愛を学ぶ場所はないのである。愛する能力のある生人に育ててほしい。
これは、何代にも連鎖する。
学校で愛は教えられない。
生人として成長し、自己の人格を形成できれば、勉強などさほどしなくても大したことではない。独占欲や、依存心、執着は愛ではない。間違えないでほしい。
今、親である生人は、子の生人が大人になった時、温かい家庭を思い起こさせるようにしてやってほしい。これは生きてゆく上で、大きな宝となる。生人が大人になって生きてゆくための指針となるものだ。両親からの大きな愛と、格差のない教育。
発達障害なんていうものは、おかしな考え方である。何でもいろいろな名前をつければいいというものではない。だいたい完璧な生人なんて存在しない。誰でも得手不得手があるように、言ってみれば皆が発達障害である。その度合いもあるだろうが、その中から天才が育つだろう。子が、できないことを母は責めてはいけない。できることを褒めれば良い。
皆どこへ行ってしまったのだろう。年を重ねてゆくことは、無性に寂しいものである。
カラスが大声で鳴く。群れて鳴きながら飛んでゆく。どこに帰ってゆくのだろう。もしや誰かを連れ去って帰ってゆくのでもあるまいが。
家に帰りたいと思う。いつも帰りたいと……。それは、活気があった時代の自分が無責任に生きていた頃の家だろう。小学生だった頃の家である。そう思えるのも自分がかなり愛情のある家庭に育ったからであろう。
大人になって、年をとり、そう思えることは幸せであったということだろう。絶対に帰りたくないと思う生人たちもたくさんいることだろうが……。
現在、そんな家はもうないが、随分と昔にもうないが。もう誰もいない。死んでいったのだ。何でだろうと考えてみても、事実。