あるとき、こんな出来事があったのを思い出す。

いつもの三人で、三宮駅前にあったジャンジャン市場へ足を運んだ。ここには多くの食堂があって、安くて旨いものが食べられた。これから夜遅くまで遊び回る前の腹ごしらえだ。私たちは行きつけの店に入り、その店の親父と話が弾んだ。

「この店の味噌汁は最高に旨いなぁ。寮の味噌汁は食えんよ」と有江くんが言った。
私と広瀬くんも、同感、というように大きくうなずいた。

そのときだ。私たちが座っている足元を、数匹のゴキブリがサーッと通り過ぎた。
思わず三人で顔を見合わせた。

「オジサン、ゴキブリがいたよ」

「うん、ゴキブリが多くてなぁ。一度ゴキブリが味噌汁に飛び込んだこともあったよ。すぐに取り出したけどな」

「えー、そんな味噌汁、俺たちに食わせないでよ」

「当たり前だよ。お得意さんだからね」

四十分ほどいて、その店を出た。私たちは歩きながら話した。   

「あの食堂、もう行くの嫌になったよ」と有江くんが言った。
「何言ってんだよ、そんなのどこの店でも一緒だろう」と私は答えた。

すると有江くんが、「お前だってこの前、食堂で味噌汁にチョークが入ってて、オバサンを怒鳴りつけてたじゃないか」と返した。確かにそんなこともあったけれど、あまり気にしても仕方がない。

すると広瀬くんが一言つぶやいた。
「食べ物屋って、店がちょっと汚いくらいのほうが旨いんだよなぁ」
私と有江くんは思わずその言葉に同感し、そのまま次の店へと足を運んだのだった。

今の若い人から見れば、当時の店は驚くほど不衛生であっただろう。それでも食べるものさえ十分になかった戦後の時代を生き抜いた私たちにとって、美味しいものを腹いっぱい食べられるだけでも、幸せな時代を迎えたことを実感できたのである。

またある日、スナックで三人で飲んでいると、フランク永井の『13,800円』という曲が流れてきた。ご存じだろうか。昭和三十二(一九五七)年に流行した歌で、その頃の大学卒の初任給(月額)がそのくらいの金額だったから、この題名が付けられたらしい。

「一万三千八百円? なんだ、俺たちとそんな変わらないじゃないか」

三人で顔を見合わせて笑った。私たちは当時二十歳で、給料は一万二千五百円ほどだったから、誇らしい気持ちにもなった。国鉄(現・JR)の同世代の職員の給料が七千円くらいで、川鉄の社員はかなり恵まれていたのだろう。たぶん高給取りの部類に入っていたと思う。それもあってか、「川鉄で働いている」と言うとかなりモテたものであった。

とはいえ、人よりたくさん給料をもらっていても、週に何回も繁華街へ繰り出し、深夜まで飲んで遊べば、お金は尽きる。しかし、ここでも川鉄の名が強い武器となる。

たとえば彼女とのデートのために新しい上着が欲しいとする。「川鉄で働いている」と言うと、月賦で買うことができたのだ。そして給料日の一週間前くらいになるとお金が底をつくから、買ったばかりの服を質に入れてお金を工面する。給料をもらうと服を質から出して、また流行りの服を着て彼女とデート、また質入れ、といった繰り返しだった。