三 平和を問いかける戦跡 1 要塞と化した島
私の手元には、A4版の『小笠原村戦跡調査報告書』平成十四(二〇〇二)年三月「小笠原村教育委員会」発行(非売品)があります。この飾り気のない白表紙の冊子は、自分にとって「おがさわら」という、とてつもない世界を知る上で、極めて大きな影響を受けるものとなりました。
この報告書によって、自分の目で戦跡を確認したいという想いに駆られ、赴任期間のうち時間の許す限り土・日・祝日には、戦跡に詳しい先輩・気の合う仲間と調査と称し出掛けていたのでした。それは、戦跡を知りたいという個人的な興味と、自分以外にも広く伝えていかねばならないという義務感にも似た心情によるものでした。
多くの戦跡を訪ね歩くたびに、膨大な時間と労力とによって造り上げられたであろうそれらの数及び規模に、ただただ驚き感嘆するばかりでした。そうした施設は、父島を南洋諸島への中継基地とするために大正三(一九一四)年、旧海軍による電信業務開始から、昭和二十(一九四五)年の終戦まで、営々と構築され続けていくことになるのです。
そして、約七〇〇〇人の島民の強制疎開を経て、昭和二十(一九四五)年一月には、硫黄島二万一五〇〇人、父島一万六〇〇〇人、母島六二〇〇人の兵隊さんが軍務に就くことになるのです。
戦争末期には、硫黄島は熾烈な陸上戦により玉砕し、父島、母島でも激しい空襲と艦砲射撃によって、義勇隊を含む四五〇〇人が亡くなられています。
小笠原の戦跡はそのほとんどが、朽ちつつも当時のまま残っています。ここまで残っているのは世界で小笠原だけでしょう。残すことが出来たのは手つかずの自然に包まれていたからです。
報告書では、軍事上特に重要であった戦跡について、父・母島の八〇箇所ほどが抽出され、整理されています。それ以外にも、聟島列島では聟島に、父島列島では兄島・西島に、母島列島では向島・平島に、硫黄列島では硫黄島・北硫黄島に、そして南鳥島などにも、軍隊配備の名残として、多くは当時のまま戦跡が残っています。
そのいくつかの島に上陸して、風雨にさらされつつ静かに残るコンクリートの塹壕、そして大砲などを観て、当時、本土からはるかに離れた太平洋上の孤島で、兵隊さんがどのような想いで軍務に就かれていたのかと思うと、感傷に駆られます。そして、平和の尊さ重要性をしみじみと感じるのです。