おーい、村長さん
一
やっと一人になることができた。ため息をついて、お茶を一口飲む。すると、小鳥のさえずりが聞こえてきたので、村長室の大きな窓に一歩二歩と進み、外の風景を改めてじっくりと眺めてみた。役場前の道路は車がほとんど通らない。道路の横には大きな川がゆったりと流れている。川の向こうには雄大な山々が屏風を広げたように聳えている。
右を見ても山、左を見ても山。この村の人々は、大自然の中で静かに暮らしている。到着したばかりであるけれども、村の人々は人柄もよく、やさしいことがよく伝わってきた。私の心にじんわりと染み込んでくる何かがあった。
私は生まれも育ちも新宿。人と車と騒音の中で生きてきた。とにかく便利な街。どんなモノでもお金を出せば手に入る。他人のことは全く気にしない。家族のことさえ怪しいものだ。毎朝、サラリーマンは小走りで会社へと向かう。携帯とパソコンばかりを見つめ、人の目を見ることもない。時間に追われ、予定に縛られ、クレームにビクビクしながら仕事を続けている。その中を上手に泳ぎわたる人がスゴいと言われ、タワーマンションの住人となる。
だが、こんな高度情報化社会が、本当に素晴らしいのだろうか。それが真実の幸福の姿なのだろうか。人々が追い求めていた世界なのだろうか。私自身は、そんな都会の暮らしが好きになれなかった。
そんなことをなんとなく考えていたときに兄が急に引越すと言い出した。場所は日野多摩村。聞いたこともない。どこにあるのか。どうして大自然の中に住もうと考えたのか。
そして今日、私は初めて日野多摩村を訪れた。都内にこんな場所があるとは知らなかった。確かに素晴らしい。しかし、兄が全く縁もゆかりもないこの村で、なぜ村長をしているのだろう。
一時間ほど村の景色を眺めつつそんなことをぼんやりと考えていた。そのとき、誰かが村長室の扉をノックした。
「村長。よろしいでしょうか」
さきほどの幹部らしき人の声だった。
「はい、どうぞ」
と答えると、転がり込むようにさきほどの職員が二人入ってくる。
「おーい、神田君、早く書類を持ってきて」
白髪の職員が廊下に向かって人を呼ぶ。
「はい、これが確認いただく報告書です」
神田という男性職員が持ちきれないほどの書類を両手いっぱいに抱え村長室に入ってきた。
「さて、村長。早速入院中にあった村の業務報告と明日以降の打ち合わせなんですが」
「青山」とネームプレートに書かれている白髪の職員が話を切り出す。
(もう言わなければ)
「あの、その前に大事なことをお話ししなければならんのです」
村長のイスから立ち上がり、私は意を決して話し始めた。
「皆さんの兄への思いが熱烈で、なかなか言い出せなかったものですから」
「は、兄?」