二 先人たちの歩み1小笠原の発見と最初の移民たち
小笠原の歴史を語る上で忘れてはならない人に、最初の移民の一人となる「ナサニエル・セーボレー」がいます。セーボレーは、アメリカのマサチューセッツ州で生まれ、三六歳の時、欧米人五名とハワイ諸島の先住民約十五名とでハワイのオアフ島を出港し、六〇〇〇kmの太平洋を横断し、今から約一九〇年前の一八三〇年六月二六日父島に到着、最初の定住者となりました。やがて、捕鯨船に飲料水や新鮮な野菜、果実、ウミガメ、薪、またサトウキビから製造したラム酒等を供給しながら、父島を生活の地とするようになりました。
十九世紀前半、当時の小笠原近海では、鯨の油が灯油として使用されていたことから、灯油燃料が石油に代わるまでの間、捕鯨はクジラの肉と共に貴重な供給源として、全盛を極めていました。
開拓の初期、島に生き島を愛したセーボレーは、八十歳の天寿を全うした後、当初、父島・奥村の地に埋葬されたようですが、その後、旧大根山墓地に移葬されています。その凛とした白い墓碑は、昭和五四(一九七九)年「東京都指定有形民俗文化財」に指定され、その周りを西洋風に色鮮やかな生花で飾られ、訪れた人を迎えています。
そして、セーボレーは、亡くなってからもその後の小笠原の数奇な歴史のドラマを見続けながら、現在の安定期を静かに見守ってくれているのです。
次に小笠原諸島の人跡ですが、先史時代の研究は未だ、し尽くされていないようです。そうした中で、縄文時代から弥生時代のものといわれる北硫黄島の丸ノミ型の玄武岩質の石斧三点がありますが、これらは昭和の初期に発見されました。その外、父島大根山で採集された凝灰岩質の石器、母島の都営住宅の建設現場で発見された骨角器と貝器などがあります。
歴史上、「小笠原の発見」とされているのは、「黄金の島」があるとされた東方海域の日本を目指して、スペイン人の探検家の指揮するサン・ホアン号(船長はベルナルド・トーレ)が、三つの島を発見したという一五四三年となります。
この三つの島は火山列島(硫黄三島)とみられるのですが、何れの島であったかは明らかではありません。日本では、文禄二(一五九三)年十月、松本深志城主小笠原長時の孫にあたる小笠原貞頼が、徳川家康の許しを得て出航し、八丈島の南東洋上で無人島を発見して島の品々を持ち帰り、家康から「小笠原」の名を賜ったと伝えられています。何れも真偽は定かではありませんが、ロマンを感じさせ、先人たちが苦労したであろう当時に想いを馳せてしまいます。
平成五(一九九三)年十一月には、小笠原貞頼の小笠原諸島発見四〇〇年、返還二五周年ということで、「無人島発見之の碑」が、父島・扇浦の地に建立されています。