一章 自我が目覚めるお年頃
一 みかどを閉店します
二〇〇七年の秋、私は都営新宿線・大島駅で降り、エレベーターで地上に出ました。
扉が開くと心地よい風が頰を撫でていました。金木犀の甘い香りに包まれると、疲れた身体が癒やされていくのを感じます。丸八通りと新大橋通りの交差点で信号待ちをしながら夜空を見上げるときが、ホッとするひとときです。
信号が変わり、少し急ぎ足で歩き始めました。いつもなら、途中でたこ焼き屋の香ばしいソースの香りに誘惑されたり、老舗の吉田書店に立ち寄ったりするのですが、この日は真っすぐ家に帰らなければいけませんでした。
今朝、食事のときに、父から「おまえに話があるから、今日早く帰ってきてくれるか?」と言われ、母も落ち着かない表情でした。重大な話って、病気なのかなぁ……。ふと頭の隅っこで過りました。
十年暮らした代々木から、実家がある大島に戻って四年が経ちますが、私がどれだけ夜遅く帰宅しても、「家族なのに、先に寝てしまったら愛想ないからね」と言って両親はいつも待っていてくれました。
この日は、バラエティ番組を観ていたようです。私はモデルやタレントをキャスティングする仕事をしているのですが、私よりも芸能界に詳しい母でした。それは吉田書店から毎週届けてもらっている女性週刊誌のお陰で、母とテレビを一緒に観ていると、出演しているタレントのプライベートな情報を教えてくれます。番組が二倍面白くなるのですが、ときには(静かに観させてよ)と思うことがあります。
しかし父は気にならないようで、同じ話題を何度でもする母の話を初めて聞いたかのような態度で、「へぇ~」と言う父に感服致します。
いつもなら帰宅後はテレビを観ながら、親子三人でのんびりお茶を楽しみながら今日あったことを話したりしていましたが、今日は違います。私がお茶をいれて腰を下ろすと、父がテレビを切りました。私に向かって
「ヨーコ、俺……来年で八十になるし、ばあさんの足腰も弱っているから、みかどを閉めようと思っているんだけど、いいよな?」
みかどは、私が三歳の頃に両親が始めた駄菓子屋です。
「みかどを閉める? みかどがなくなる?」
大変ショックな話でした。いつかそんな日が来るとは思ってはいましたが、まだまだ先のことと、気楽に考えておりました。一瞬、“イヤだ”と言いそうになりましたが、しわが深く刻まれた二人の顔を見ていたら、何も言えずに大きく頷きました。
「二人して、いままでよく頑張ってきたもんね。いつ頃、閉めるつもり?」
「来年の五月くらいかな……」
「いいんじゃないの?」と私はさばさばとした明るい調子で言いました。
「いままでほとんど休みがなかったからね……。これからは旅行にも行けるし、お正月もしっかりと休めるし……お母さんも趣味の手芸ができるよね」
「最近はすっかり根気がなくなったから、手芸は無理だよ」
両親も私に言ったことで肩の荷が下りたのでしょう。晴れやかな表情になりました。