疎開、中島飛行場のウエス再生の仕事

東京の空襲が激しさを増してきた頃、危険を察知した両親は知人を頼って栃木県足利市に疎開することにしました。一九四三(昭和十八)年のことです。足利市の田舎、勧農町に疎開しました。

日本の飛行機零戦を製造したこともある、かの有名な中島飛行場が群馬県太田市にあります。近くに中島飛行場がある足利市は、空襲が時々あったようです。戦時中でしたが、たまたま日本人の知人の紹介で、中島飛行場で飛行機の整備に使用した重油で真っ黒になったウエス(ボロ布)の洗濯再生の仕事にありつけ、家族総出でその汚い仕事をやったそうです。顔も真っ黒になりながら仕事をした、と叔母が言っていたのを覚えています。

ドラム缶のような大きな洗濯機で、真っ黒な重油でどろどろに汚れたウエスを洗い、近くの土手に干し、再生して飛行場に収めたそうです。このような汚い仕事を日本人はすることがなかったでしょう。しかし、韓国から来た人々はしっかりとした仕事がありません。子供を育て、食べていくためにほかの人がやらない仕事をしていました。

戦時中はほかに仕事はありません。これも大変親切な日本人の紹介で仕事ができたと、今でも九十歳近い長兄が感謝しています。また、父が誠実で真面目だったので日本人から信頼され仕事ができたのだと、兄が言っていました。

両親は、仕事が忙しい時には近所の日本人に手伝ってもらったようです。戦時中そんなに簡単な仕事があるわけがありません。韓国から移住してきた両親は、生きるためにどんな仕事でも手がけようと思ったのではないでしょうか? 少し大きくなった子供達や近所の人も使いながらウエス再生の仕事を一生懸命したようです。どんな時でも出会いは大切ですね。父は日本語も話せるし、書くことができました。そうしてその仕事で我が家も結構経済的に潤ったようです。

当時日本で韓国人が生活するには、職業が保証されていません。どんな仕事でも誠実に仕事することから互いの人間関係が成立するのです。終戦までの数年、ウエス再生の仕事は私達一家にとって生きる糧だったでしょう。そうして数年の仕事で少し蓄財をしたようです。母は少し貯めたお金を紙幣にして貯めず、金の延べ棒を買って貯めたと後で長兄から聞きました。