一五四九年、パウルス三世は八一歳で身罷られた。三カ月に及ぶ「コンクラーベ」の結果、我らがデル・モンテ枢機卿が選出され、新教皇ユリウス三世となったのである。
続いて女神はジャンネットを手招いた。
教皇ユリウス三世は一五五一年九月、ジョヴァンニ・ピエルルイージをヴァチカンのサンピエトロ大聖堂内「ジューリア礼拝堂聖歌隊」楽長に任命した。
当時音楽家になるには、弟子奉公の中で実績を積み、苦労を重ねながら階段を登ってゆくもので、その道は厳しい。ところがジャンネットは二六歳にして、頂点に達した。天より与えられた誰よりも恵まれた才能の賜物である。勿論信仰と努力の積み重ねでもある。しかし六歳でサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の門をくぐった時から、この任命まで、ずっと幸運に恵まれ続けて来た。ジャンネットの才能を見抜いた数多くの人々に、いつも暖かく見守られていたのである。
ジャンネットとルクレーテはローマへの引っ越しの準備を急いだ。父サンテとマリアは家に残った。その代わりに使用人を連れていくことにした。家はジューリア聖歌隊の学校内に提供されたが、 二歳と生まれたばかりの子供たちの他、ジューリア聖歌隊の少年五人、オルガン学生との生活である。勿論今度の家には召使いはいるが、初めての生活は不安であった。
「ムトタとグラサ。そしてこの赤ちゃんはマトぺよ」
ルクレーテは、ジャンネットに紹介した。
遺産として引き継いだブドウ畑をルクレーテと二人で見に行った際、この二人はそこで働いていた。二人は他の仲間と共にモザンビークから連れてこられた奴隷であった。だがムトタはポルトガル語が話せたので、奴隷達のまとめ役となっていた。
ルクレーテはグラサの事を気に入ったようであった。子供が生まれたばかりであり、ロドルフォとアンジェロへの目配りも細やかであった。ジャンネットはこのモザンビーク人家族をローマに連れていくことにした。ローマでの賑やかな生活が始まった。
家族と共にローマで暮らす生活は、初めの頃戸惑いもあったが、妻ルクレーテの支えもあり穏やかさを取り戻していた。
何よりも音楽家として、最高の立場を与えられた二〇代後半の若者にとって、溢れんばかりの気力と体力、湧き上がる創作意欲を抑える事が出来なかったジャンネットは、この幸せがいつまでも続くと確信していた。