二、牛李の党争

南北朝以前の歴代中国の王朝は、貴族による世襲統治が基本であった。だが、混乱の南北朝時代を鎮め統一を果たした隋王朝、初代文帝はそれまでの貴族政治の慣例を破り、一般人からも優秀な人材を求め、政治に参画できる制度として、科挙と呼ばれる官吏の選抜試験を創設した。

科挙の受験資格を得るには各地で行われる県試、州試などの地方試験を突破する必要があり、長安で行われる科挙には全国から数千人の志願者が殺到したと言われている。しかし、難関の科挙に合格するのは年に二、三十人、官吏になるためには、さらに(せん)()と言われる任官試験に合格する必要があった。

銓試の審査基準は身、言、書、判の四つ、容貌や押し出しが立派か、言語が明晰で理論が明解か、美しい文字が書けるか、文学的才能や貴族的教養を供えているかであり、合格するのは数名、官吏への道は(たと)えようのない険しいものだった。

長安、北里の妓楼で二人の男が酒を酌み交わしていた。二人の左右には髪を双鬢に結った年若い妓女が座り、座した大きな卓の前には舞台が設えられている。

「われらの栄達の道を閉ざした李吉甫の息子が、親の威光を背景に重用されているのをご存知でしょうか」と、李宗閔(りそうびん)が問いかけた。

「存じています。貴族の特権で官吏になり、吉甫と同じ時代遅れの考えに凝り固まった男だと聞きます」

と、苦々しく牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)が相槌を打った。二人は難関の科挙に合格して登庸(とうよう)された進士出身官吏であり、牛僧孺は科挙を首席で合格したエリートだった。進士官吏は英才であったが一般的に自己顕示欲が強い自信家で、理想論を述べ、実践的な政策を軽視する傾向が見られた。

牛僧孺、李宗閔らは皇帝自らが政策を問う制科(せいか)と呼ばれる試験で宰相李吉甫が行う武力で藩鎮を押さえる抑藩政策を厳しく批判し、逆に藩鎮融和策を推奨したことがあった。彼らは時の実力者である宰相李吉甫と違う意見を述べることで、自らを誇示する狙いでいたが、批判された李吉甫は、考えの違う彼らに強い不信感を持ち、長安には置かず地方へ転出させ要職に就けなかった。

日の当たる場所から遠ざけられた牛僧孺らは、李吉甫に強い恨みを抱くようになったが、官吏の中には牛僧孺らを評価する意見もあり、徐々に力を蓄え要職に着く機会を狙っていたのだ。

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