“信念”と“不安”は、ベテランだけのものではない。
例えば、生徒に暴言を吐いて保護者からクレームの電話が入った二〇代の教員。一応、そのときは、「今後気をつけます」と言うものの、電話を切った途端、「つまらないことで電話してきやがって」と、周囲に聞こえるように言う。
「本当ですねえ。最近の保護者はややこしいですよねえ」
という慰めの言葉を期待しているのだ。本当は保護者に反論したい思いもある。自分だけが悪いわけではないと思っている。
それに、苦情電話一つで自分のやり方を変えるのは、教員としての“信念”に欠けると感じる。だから、真面目な教員ほど“クレームに屈する”ことをよしとしない。けれども、何か言うと話がこじれる。だから、とにかく謝るしかない。そういうジレンマに苦しむ。
そして、そのジレンマによって、さらに“不安”は増幅されそれが生徒に向かい、新たな暴言を生む。
その暴言によって生徒が学校に来られなくなっても、自分の態度を変えようとしない。変え方がわからないのだ。だから、言葉とは裏腹に、「次は何を言われるのだろう」といつもビクビクしている。ビクビクしていながら自分のどこが悪かったのかを見つめ直す術を知らない。だから、同じことを繰り返す。
「暴言が理由で生徒の欠席が三〇日を超えると重大事態となり処分の対象になることもある」ということは、頭ではわかっていても「どうぞ処分してください」と言わんばかりの態度をとってしまう。
「いやいや、あのね、処分レベルになるとマスコミの餌食になることもありますよ。なにより、子どもが苦しんでいるのは事実ですから、言動には細心の注意を払ってください」
と諭すが、憮然とした表情は変わらない。
いつも誰かに「あなたは正しい」と認めてもらわないと“不安”で仕方がないのである。