【前回の記事を読む】キジバトの巣作りに見る「6700万年前までのわたしたちの祖先の生き方」

 人間のいのち

4 精神的いのち

ところで、人間が後天的に学び蓄えていかなければならない精神的素養は、口絵(第2回記事 図表1 参照)に示すように大きく二つに分けて考えることができます。レベルⒸの量的素養(それは可能か)と、レベルⒹの質的素養(それは適切か)の二通りです。レベルⒸの量的素養(それは可能か)とは、学び蓄えた知識技術を駆使し、世の中の流れに順応して要領よく生きてゆくことを可能にする能力のことです。

端的に言えば、物質的な豊かさや暮らし向きの利便性を主眼とする生きる力のことです。それに対して、レベルⒹの質的素養とは、人間としての在るべき姿を見据えて、信じ合い支え合って精神的な豊かさの追求を最終的な目当てとして生きてゆく力のことです。

昨今の人間社会の実情を、この二段階(レベルⒸとレベルⒹ)の価値軸で省察してみると、前にも述べたように、量的生き方にはかなり成功しつつあるように考えられます。しかしながら、レベルⒹの質的生き方にはほとんど目が向いていないような気がしてならないのです。ここで言うレベルⒸの生き方は、人間として生きてゆくことの最終的な目標ではなく、言わばレベルⒹの生き方への足がかりであるということを見逃してはならないのです。ここのところに、大自然の申し子としての人間の大きな大きな課題が潜んでいるのです。

学校教育現場の状況を省察してみても、いわゆる学力向上だけが眼目で、教育基本法第一条に示されている「教育は、人格の完成を目指し……」の教育理念が忘れ去られているような気がしてならないのです。つまり、「精神的いのち」におけるレベルⒸの「知識技術的・適応的」能力の獲得にばかり力が入り、レベルⒹの「人格的・創造的」力量への努力が疎かになっているというのが現実のようです。

教育現場のこのような流れの背景には、人間社会における豊かさのモノサシが低廉化してきているということも考えられます。手近な利便性やものの豊かさを最高の価値観として進んでいくうちに、いつの間にか「人格の完成」の指針が見失われて、人間の存在がものの豊かさへの手段になり変わってしまっているという現実があるのかもしれません。

「人格の完成」の指針が見えない世界では、自分(自分たち)ファーストのせめぎ合いの世相が色濃くなっていく現象は当然の流れであると言えましょう。

わたしたちは今こそここで立ち止まって、人間だけの授かった宝物、「精神的いのち」をどう整えていくか(新しく創り出していくか)ということをしっかりと考えていかなければならないのではないでしょうか。