厳格な両親の元に生まれた私は、反動で裏の世界に興味がありました。一人で沖縄の島々を巡って、野宿をしながら地元の人と交流したり、日雇い建設労働者として働いたり、ダンサーのアルバイトをしたり、六本木で朝までホストなどの水商売をしたこともありました。

建設の仕事では、高田馬場まで会社の人が迎えに来てくれました。どの現場に連れていかれるのかは、行ってみるまでわかりませんでした。鉄材運搬をした時には、足で釘を踏みつけてしまい、破傷風の予防接種を受けたこともあります。

ダンサー時代は私は30歳で、60歳くらいの人と毎日踊っていました。今思えば、人生勉強をしていました。そんな不規則な生活を繰り返し、肺結核となり水商売を卒業。それまでを振り返りわかったことは、野獣生活のなかでいろいろな人との出会いを通し、自分は物より人が好きであるということでした。

そこで東京教育大学大学院で理学博士号を取得したところで、物相手の実験はやめることにしました。その頃ある教授から、物より人が好きな私には医者が向いているというアドバイスをいただきました。

私はこれだ! と思い、横浜市立大学の医学部に入学。29歳でした。家が貧しかったこともありますが、自分の好きなように生きていたので、学費、生活費はすべて自分で稼ぎました。それはとても大変でしたが、今となれば人生の財産となっています。そして17年間の大学生活を終え医者として社会人となりました。

その頃増加していた糖尿病には、運動が重要でした。そこで私は運動療法がある糖尿病担当を自ら志願してやらせていただきました。糖尿病には栄養士・薬剤師・看護部・リハ科等のチーム医療が大切であり、医者だけではとてもできない医療でしたので、教育入院を立ち上げたり、運動療法を立ち上げたりと、結構楽しみながらやっておりました。